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by aramu
| 2017-04-03 06:15
日本心霊科学協会を中心とした、日本のスピリチュアリズムの関係者に用いられている用語に「背後霊」というものがあります。 この「背後霊」という語は、とても誤解されやすい用語のようです。 霊魂学の先生が「背後霊というのは、日本のある女性霊能力者が作った用語だと言われている」 「その女性霊能力者の言う背後霊の意味は、《背後に見える霊魂》、または、《背後に立っている霊魂》という意味のはずだった」 「当時の心霊主義者の中には、《背後に居る》というように理解して、『先祖の霊魂が側に来ている』、『背後が綺麗になる』と言っていた人もいた」 「本来、背後霊というのは、高級な霊魂に対して使用する用語で、いわゆる悪い霊魂に対して用いる用語ではなかった」 「背後霊は、基本的に守護霊や指導霊、補助霊等を指している」 「背後に居る霊魂という考えは間違い」 「単に霊視の対象者の背後に、霊的なビジョンが映りやすい、という事が多い」 「それは、霊能力者にそう見えたというだけで、実際の霊魂の姿とは限らない上に、その場に居るとも限らない」 「女性霊能力者が本物の霊能力者であったとしても、その霊視が正しいという保証はない」 「霊視のメカニズムを検証しないと、見えている霊魂がその場にいるのか、別の場所にいるのかが分からない」 「守護霊や指導霊は人間の背後にはいない」 (『霊魂に聞く』より)と述べられています。 また、別のスピリチュアリストの先生も「一般的に言って先祖/身内/知人の霊、基本的には、先祖と指導霊などの一緒にいてくださる霊の総称で、よく背後に見えるので、日本に限ってこのような名前が生まれた」と述べられています。 このように、何時の間にか、「背後霊」は、【人間の後ろという位置に立っている、人間の後ろという位置に見える霊魂】という意味に変わってしまったようです。要するに、【それほど高級ではない、身近な霊魂】の事とされてしまったのです。高級霊であれば、人間の後ろという位置に立っている事も、見える事も有り得ないからです。 元々は、「背後霊」という用語は、『心霊科学』から出た用語です。 まず、心霊科学は心霊現象の研究から始められました。 この最初の研究から、発見されたのが【心霊現象の背後にいる霊魂】でした。 【心霊現象・霊媒現象を引き起こすのに関与している、霊媒の周囲にいる霊魂達】です。 霊媒を入神させ、時にはその身体を用いる、他の霊魂のメッセージの取次を行なう等、交霊の場の中心的役割を果たす《コントロール》、交霊の進行が上手くいくように配慮し、調整する《コーディネイト》、物理的現象の生起、通信する霊魂の話す技術、参加者への話等がより良くなるように指導、または、訓話的な内容を入れたりする《ガイド》または、《ティーチャー》、心霊現象の生起に関係する必要成分の抽出・媒介物を生成する等、実質的に関係する他界の化学者・技術者である《オペレーター》、出席者の幽的身体の活力注入や治療を司る《ドクター・ヒーラー》、霊媒の入神状態の肉体の維持、関係のない霊魂が入って来るのを防ぐ《ドア・キーパー》、交霊可能な残り時間を伝える《タイム・キーパー》、その他の手伝いを行なう《ヘルパー》、通信をする霊魂、そして、霊媒の人生・成長の総監督である《ガーディアン》等 こうした【霊媒の背後にいる霊魂達】が確認されたのです。 つまり、一番最初には「背後霊」とは【霊媒現象の背後にある霊魂】の事だったのです。 これが日本では、人間個人に視点を向ける事となったのです。 浅野和三郎さんも『心霊研究とその帰趨』の中で “どのような心霊現象の背後にも、必ずそれの作成にあたる他界の居住者が控えています” “私の実験した限りでは、各人の背後には必ずその人に個有の守護霊がいます” “それは最近八十年間に、世界の東西各地で行なわれた心霊実験の結果も有力にこれを裏書きしています” “次にいわゆる支配霊というのは、守護霊の統制の下に或る特殊の任務を分担している補助霊と思えばよいでしょう” “きわめてまれには、この支配霊のない人もあるらしいのですが、大部分の人々にはまず一人から三人位の支配霊のいない人はないらしいのです” “中でも心霊現象の作製を天職とする霊媒には、その傾向が一層強く、時には、Aの霊媒の実験に出現した支配霊が、臨時に他の霊媒の実験にも出現するような実例は幾らもあります” “各自の背後に守護霊その他が控えている” (第十二章より) 言及されています。 そして、吉田綾さんが、【霊界にいて、背後から護る】という意味で、精神統一会の霊談において「背後霊」という語を用いられました。 この時は、【人間に付いて、その人間を護っている霊魂達の総称】ということでした。 吉田寛さんは“私共は、守護霊と指導霊と総称して背後霊と呼ぶ”(『顕幽歌集』 むすび)と述べられています。 その後、【出来事の背後にある霊魂】ということで、【人間の幸・不幸の背後にある霊魂】に拡大解釈され、使用されることになりました。 それぞれの団体、霊能者間で用いられる語は異なります。 【人間の幸福に関わる霊魂】として《守護霊》を筆頭に、《指導霊》、《司配霊》、《司配霊》、《補助霊》等。 【人間の不幸に関わる霊魂】として《邪霊》、【未発達な霊魂】である《因縁霊》、《随伴霊》、《憑依霊》等。 【人間の見えない世界において、様々な出来事の表面に現れない陰の部分に干渉・影響を及ぼす霊魂】の総称が「背後霊」となりました。 【人間の関知し得ない、物事の背後に影響し、見えない世界から、この世の人間を助け・導こうとする、または反対に唆し、害を及ぼそうとする霊魂】の総称という事になったのです。 【出来事の背後にある霊魂・個人の背後にある霊魂】と「背後霊」の意味合いが変化したことによって、『背後の調査』、『背後の整理』といった言葉も用いられるようになりました。 「背後霊」という言葉ですが、その指すものが【霊魂】のみとなって、本来、含まれていた【霊】まで及ばなくなりました。 【身近な霊魂】、【周囲にいる霊魂】のみとなったのです。 【味方の霊魂】としては、中心的に積極的に働きかける《補助霊》が中心となったのです。 その他は【未発達の霊魂】を指すことになりました。 霊能者が霊視した時に、その射程に入りやすい、【背後に居るように見える、映る霊魂】のみとなったのです。 《守護霊》は当然として、《指導霊》まで、霊能者には捉えられなくなったのです。 《支援霊》、《補助霊》といった《媒介霊》までが、霊能者が主に捉えるものとなりました。 その結果、「背後霊」には【守護・指導・支援・協力の味方の霊魂】と【未浄化・未発達の霊魂】の双方が含まれることになり、【高級な霊】である《守護霊》が含まれないことも出て来たのです。 そのため、「背後」という言葉を「霊相」と呼ぶ人も出て来て、「背後霊」を「守護霊」・「守護霊団」、本来の「守護霊」を「主護霊」として、【未浄化・未発達の霊魂】と区別する人もいます。 このように「背後」とは、【背後という位置】のことではなくて、【普通、人間の関知し得ない、物事の隠された部分、表面には現れない、陰の部分】という意味だったのです。 【人間には見えない世界から、影響を及ぶす霊魂】の総称が「背後霊」です。 ですから、「その霊魂がどこに居るか」が問題ではなくて、「その霊魂が影響を及ぼしているか否か」、「その霊魂が干渉しているか否か」、「その霊魂の影響とは、守り、導き、助けようとしているものか」、「その霊魂の影響とは、惑わし、唆し、害を及ぼそうとしているものか」ということが問題だったのです。 昭和31年頃の吉田綾さんの霊談からも、本来の「背後霊」が、【人間にとって、良い影響をもたらす霊・霊魂】のことであったことが分かります。 “心霊学徒は、常に高級背後霊に導かれつつ、生かされて生きている自分であることを、先ず自覚することが大切であります” “そして、常に親しく自分の背後霊を思念しているならば、その背後霊に守られやすい状態に自分自身をおくことになるのであります” “人は、本来先天的に、その高級背後霊の守護指導の下におかれているのでありまして、その背後霊は、あなたが、あなた自身につき、知っている限りのこと、又、あなたが未だそれと気づいていないこと、即ち、あなたに関する一切のことを見通しているのであります” “背後霊は、あなたの心境と境遇と、そして、あなたの努力とに対応して、あなたの魂の向上のために、適切な守護指導をすることができるのであります” “あなたが、与えられるものを、素直に受け容れると共に、その与えられたものの意義を知り、そして、最善の努力をされるならば、背後霊の守護指導は一層顕著になり、あなたの魂は一段と飛躍して飛躍して、そこに更に、輝かしい運命が、あなたを待ちかまえていてくれることになるのであります” ”心霊学徒は、常に慈しみの眼をもって護って下さっている、人生最大の味方 即ち、“青眼の祖”、いいかえると、守護指導の背後霊が、常に傍におわすと固く信じ、心霊学徒らしい、意義ある、輝かしい生涯を送られんことを、心霊知識普及霊団における背後霊は念願して居るのであります” (『心霊研究 No.118』より) この霊談から、「背後霊」が【守護指導】を行なうものであり、【人生最大の味方】であり、【未発達の霊魂】とは全く反対のものであることが分かります。 ですから、“背後に見える霊魂”・“背後に立っている霊魂”等といった意味が全くなかったことになります。 《高級背後霊》、《心霊知識普及団体における背後霊》という言葉が、このようなものでないことを、はっきりと示しています。 「守護霊や指導霊は背後という位置にいないので、《背後霊》という用語は間違っている」という指摘は、本来の「背後霊」という用語の意味からすれば、的外れであることになります。 また、「よく背後に見えるので、日本に限って、このような名前が生まれた」というのも当たっていないことになります。「高級背後霊」がよく目撃される等ということは有り得ないからです。 残念ながら、一般的には、「あなたの背後にお爺さんが居ます」、「あなたの背後に怒り狂う男性が見えます」というように、【身近なそれほど高級でない霊魂】、【周囲に居て、影響を及ぼしている未浄化・未発達な霊魂】のことを指していることが多いようです。 「背後霊」という用語は誤解を招きやすいことは確かなようです。 と言うか、本来は、《守護霊》、《指導霊》、《司配霊》、《支配霊》、《支援霊》、《背後霊》、《祖霊》のどれであっても、【高級霊】を指すはずなのです。 《補助霊魂》、《防御霊魂》、《因縁霊魂》、《宗教霊魂》、《随伴霊魂》、《憑依霊魂》、《邪霊魂》等であれば、【高級霊以外】になります。 「一霊四魂」と日本で古くから言いますが、「神霊」、「本霊」、「直霊」と「奇魂」、「幸魂」、「和魂」、「荒魂」とでは大きな違い、隔たりがあるわけです。 残念ながら、「禍霊」、「曲霊」等の言葉もあるので、「霊」も混同されていることが分かります。 【未浄化・未発達】であれば「霊魂」であって、「霊」であることは有り得ないわけです。 「背後霊」は【高級霊】です。「背後霊魂」ならば、どちらか分かりません。 これが「霊」と「霊魂」を使い分けた場合になります。 「神霊」は存在しても、「神霊魂」は有り得ません。 #
by aramu
| 2017-01-25 23:38
「アテメントの入江には奇怪な姿をした“見張り番”悪鬼ネムがいる。“見張り番”は『永遠なる屠殺者』とか『数百万年の貧乏者』という名で恐れられている。彼は霊たちをとって食うのがいわば仕事で、心の汚れた霊などがその犠牲になる」 「クウを食われて失った霊は死霊となって死者の国に落ちるよりない」 「つまりアテメントの入江とはそんな恐ろしい屠殺者のいる入口というわけだ」(同 P45) 「霊界はその全てがいまでも完全に『光の神』たちの勢力下にあるわけではない。つねに『闇の神』セトや悪鬼セバウなどの闇の勢力との闘いがある」(同 第四章 P53) 『死者の書』の時代は、かなり古のことなので、他の類書で示される霊界に比べ、多層化されていないと言えます。天と地の世界は隔たりがそれほど大きくないので、地獄の凶霊による危険も大きいようです。〈地獄に落ちるのは生前の思いや行いの結果だけではない〉ということです。 「死者の心臓を食ったオシリスは凶霊の世界、死者の国の住人に転落させられた」 「死者の国の凶霊たちは死者の心臓や汚物などを食べて生きているという」 「悪鬼アアペフはオシリスの口に死者の汚物を押しつけて食わそうとする」(同 P59) 「一つの大きな岩のかげから気味の悪い姿の生き物が現われた。その生き物は私の背丈の三倍もある大きなカマキリだった」(同 第五章 P72) 「『ああ、クウがなくなっちゃう!』 私はそう思った。体が小さくなり、しかも透明になるような感じになったのだ」 「このカマキリは審判を無事に通過できずに心臓を抜かれて死者の国に住むべく運命づけられた凶霊だったのだ」 「地下の死者のツアトと霊界が境を接するアテメントの入江などの附近では凶霊たちがわれわれの身を狙って不意打ちをかけて来ることがさらにある」(同 P73) 「凶霊のえじきになり死者の国に落ちて行くのはバーの状態が悪い時とか、心に正義と真理の足りない霊とかの場合がそうなり易い」 「凶霊が第一に狙うのは“腐りたる心臓”であり、それは義しさにかげりを持つ心臓のこと」 「凶霊たちはカマキリに限らず蛇、蛆などさまざまな姿に自らを変える術を心得ている。蛇になってわれわれを襲うし、蛆になってはわれわれのクウを腐敗させるのだ」(同 P74) 「霊体が危機にさらされるのはそのまま自分の霊魂が危機にさらされることに他ならない。そんな危機に霊たちはいろいろな場合にしばしばさらされることがある」 「それは“悪しき回想”が起きる場合である」 「霊界の霊にも何らかのきっかけでその回想が起きる。たとえば霊界のある場所の風景が自分がひどい目にあった土地の風景とたまたま似ていた、偶然に出会った霊の顔や姿が人間だった時に自分とひどく争っていた者とよく似ていた―こんなことはよく“悪しき回想を起こすきっかけになる」(同 P75) 「彼はきっと自分の墓の場所にもどるのだ。だから彼の眼前の光景は一変してしまい、自分の墓のそばに立って彼はしばし事態の急変に眼を白黒するということになる」 「墓にもどった時の霊がバーではなく、バーよりも霊魂としては劣るカの状態にいるものだ」 「なぜ、そういう状態になるかといえばそれはつまり霊体としてのクウが危機になって霊魂を十分に保護できない状態になるからに他ならない」 “悪しき回想”は霊を自分の墓場の所へ連れ戻し、連れ戻された彼は墓場の周囲をうろつき、墓場の供物を食べて生きることになる」 「彼には時としてもっとひどいことも起こりうる」(同 P76) 「しかし、彼がそれだけでは足らず、自らの死骸や他の死者の死骸を食べるに至ると彼の危機は決定的になってしまう。このようなものを霊界の言葉では『墓所の汚物』といっている。『墓所の汚物』に手をつけると彼はもはや霊界には永久に帰れない者になる。そして彼は霊界にも帰れずさりとも人間でもないという奇怪な存在として永久の苦しみをなめて墓場や不吉な場所をうろつき続ける」 「これは霊としての死を意味している」(同 P77) 『アヴェスター』では、〈死骸を食べることは罪〉とされていますが、共通するものがあります。 「霊の心臓や四肢も凶霊や悪鬼に狙われたり、霊界の闇の勢力たる蛇、とかげといったものに奪われたりすることがある」 「これらのものが奪われたりすれば凶霊の世界に捕われの身になるとか、“心臓を失った霊”のような霊界の“不具者”になってしまう」(同 第七章 P122) 「クウが死ねば(正確には死と同じ状態になればだが)霊魂は永遠に墓場を彷徨う墓場の亡霊や地獄の凶霊の仲間に入ってしまう」(同 P133) 『アヴェスター』では、〈不具者はアフラ・マズダの創造したものではなく、アングラ・マイニュが創造したもの〉とされていますが、〈霊体の一部が欠けたものは凶霊〉とされています。 「彼らが一種“頭の弱い霊”だからで、われわれはそれを今のように“心臓を抜かれた霊”と呼んでいるのである。彼らはまるで当てもなしに霊界のあちこちを彷徨ったり白痴のようにぼけーっとしていたりする。だから彼らは凶霊たちに狙われ易いし、(中略)焔の穴のあたりを不注意にうろついていて闇の力のとりこにされてしまうことが多い」 「本来は凶霊でなくわれわれと同じ霊として生きるべく審判されたのに、凶霊たちの誘惑などに乗せられて死者の国に閉じ込められてしまう霊」 「この中には今いった“心臓を抜かれたる者”が多いという」(同 P161) 「埋葬の時の遺体保存がちゃんとなされなかったこと」 「ちゃんとした経文が読経されなかったこと」(同 P162) 「クウは無から生まれるのではない。死者の遺体から“発芽”するのだ。そこで遺体保存がしっかりなされないとそこからはちゃんとしたクウは発芽してこない」 「クウの発芽のためには遺体が大事に取り扱われていなければならない」(同 P163) 「経文はそれを死者の記憶の中にたたき込むのが主な目的なのだ。そして確かにこのような経文は葬儀においてしっかりと読誦されればそれは死者の記憶に残るものなのだ」(同 P164) 「汚物の誘惑にかられる状態とはいってみれば暗い道に迷ったようなものである。そんな時に正しい判断力を失うのは霊も人間と同じである。そんな時に今の経の文句は光を象徴するラアや東天を思い出させることで霊をふと立止まらせ、暗い道へ踏み込むのを踏み止まらせるのに役立つ」(同 P167) 『アヴェスター』では、〈人間の霊的なものは生前の善業によって養われている〉とされ、〈遺体は四大に帰すだけの汚れたもの〉とされ、ダクマで鳥や虫等に食われるままに任されるのに対して、〈クウは死者の遺体から発芽するもの〉なので、〈遺体を大事に取り扱う必要がある〉とされています。 〈墓は無用とする〉ものと〈墓を大事とする〉ものとの違いがあります。 〈葬儀での経文が大切〉とされるのは、〈経文が死者のためのもの〉だからとされます。 「そこは凶神セトが多くの霊魂たちを捕えて閉じこめている所であり、捕えられた霊魂たちはその獄門から外へ出ることもできずに地下の国にひしめき合っている」 「凶霊の国はまず第一に審判によって心臓を抜き取られた霊たちの行く国だ」 「しかし、それ以外にもいろいろな理由によってこの国に捕えられ凶霊となる者は少なくない」(同 第一一章 P190) 「ラアがマヌに沈む時に地下の国の霊たちとこの谷を守るセトの神の手下の獄卒たちの間で毎日ものすごい闘争が繰り返されている」(同 P191) 「『あ、これは光だ』 『墓の谷』の暗い洞穴のような所にひしめいている凶霊の一人がいった」 「暗闇の中にかすかに一条の白い線のようなものが見えたからだ。そして、その線は少しずつ太くなっていくのがわかった。 『光だ、光だ』 他の霊たちも口々に叫び出した。 『光だ、光だ』 『光だ、光だ』 洞穴の中は同じ言葉の大合唱」(同 P191―P192) 「地下の国の凶霊といえども光に飢えている。そこで光を眼にした彼らは光の来る方向へ争って押し寄せ、もっと明るい所へ出ようとする」 「だが、その出口には大きく頑丈な鉄の門が彼らの行く手をふさぎ、そこをセトの獄卒たちが守っている」 「鉄の門は『滅亡の扉』と呼ばれる門で霊たちはこの門に遮られ、獄卒たちからは棍棒の雨を浴びせられる。そしてラアの光を目前にしながらももとの洞穴の中に押しもどされる」(同 P192) 「暗黒の住人たる凶霊たちは暗闇が好き」 「凶霊にも二種類いる」 「多くの霊たちはたじたじとなった」 「しかし、その時同時にこの光によって起きた“泣く者” “面を蔽う者” “不幸に沈淪せる者”もいたのだった」 「同じ光に対してもそれを嫌う者と喜ぶ者がいる」 「前者は審判によって心臓を奪われた本物の凶霊」 「これに対し、光を喜ぶ者はたとえ地下の国に住んでいるとはいえ本物の凶霊ではないのだ。そして彼らは光による救いを求めている者たちなのだ」 「彼らの中にはクウがおかされて心臓を奪われた者も手足を奪われた者もいるとしても、その心臓は審判によって断罪されて奪われたわけではない」 「悪鬼や凶霊の攻撃や誘いに乗らされて地下の国へ引きずり込まれた者たちなのだ」 「『滅亡の扉』にラアの夕暮れの光を求めて殺到した地下の国の住人たちはみなこんな凶霊でないのに地下の国に住んでいる者たちだったのだ」 「『墓の谷』は地下の霊たちがもっともしばしば悪鬼や凶霊の攻撃に会う場所であり、ここの地下に住む者たちの中には本物の凶霊でない者がとくに多い」(同 P198) 〈凶霊の国にも光に飢え、光による救いを求めている者がいる〉とされるのです。しかし、〈出ることが出来ない〉のです。 〈本物の凶霊でない地下の世界の住人がいる〉というのは特徴的です。 「人々は生命力を失ってあてどなく処々を彷徨う」 「空気も水もあるが、それはみな汚い空気、汚い水であって悪臭に満ちているのが地下の国」 「食べものもないので“墓内の汚物”を食べたりしている」 「墓場の汚物を食べればクウはだめになるから当然、手足のかけた片輪の体になることもある」(同 P193) 「実は地下の凶霊の国は墓場の近くまで広がっていて墓場の周辺は凶霊の国と地上の霊界とが境を接する境界の場所の一つなのだ」(同 P193―P194) 「草履なしには歩けないような汚い所であり、しかも凶霊たちはそんな所をも草履なしに歩かねばならないという不潔な生き方を強いられている」 「アアブシャイトや蛆がうようよしていてこんな下等な虫けらにもおびやかされて暮らしているのが凶霊たちだ」 「凶霊たちのクウはどっちにせよ完全なものではないのでアアブシャイトや蛆の餌食にもなり易い」 「鼻がかけたり片耳がなかったりする凶霊などが地下の国に多い」 「アアブシャイトや蛆がもっとも多くいるのは地下の国への入口、つまりレースタウといわれる場所だ」 「彼らは入口に待ち構えていてまだ腐りかけ始めたばかりの比較的新しい凶霊たちのクウの一部をむさぼり食う」(同 P194) 〈汚物を食べて不具になる〉、〈虫に食われる〉というのは他の宗教でも見られるもののようです。 〈遺体を大切にするので墓地が必要とされる〉が、その墓地が〈誘惑の場ともなり、霊的な危機を招く〉ということになっているのです。 〈凶霊に凶霊の国に引きずり込まれる〉か〈永遠に墓地周辺を彷徨うとされる亡霊になる〉かの危機です。 また、〈本物の凶霊〉と〈本当は凶霊でない者〉がいて、〈本当は凶霊でない者は救いを求め、光に飢え、光を求めている〉が、〈出ることが出来ない〉ということです。 『死者の書』では、天の国、地の国、地下の国があるとされます。 「ごくふつうにいつもの生活をしている場所はセケト・アアンルである。セケト・アアンルは霊の生活の本拠であり、こここそが霊の国といっていい」 「小麦、大麦よく繁り」 「セケト・アアンルでは人間の世界みたいに農作業も行われている」(同 第三章 P46) 「霊界の河のほとり、湖の近く、野の中など所々にはオリーブの樹木が立っている」(同 第五章 P79) 「霊界では霊の身の安全がほとんどの場合、魔言、呪言によって守られている」(同 P85) 「霊魂はクウの危機の最後に至ればバーからカ、さらにカから腐敗した凶霊や亡霊にまで落ちぶれてしまうことがある」(同 P87) 「遊んでいる霊もあれば汗水たらして働く霊も霊界にはある」(同 P89) 「平和な平原になっていて、大麦、小麦の畑もあれば果樹もある」(同 第六章 P92) 「麦でつくった麦菓子が霊の体の糧になる」(同 P93) 「霊界でも『愛を結ぶ』ということはあるのだ」(同 P101) 「『焔の穴』といわれる穴は霊界のあちこちにある」 「悪霊たちの闇のエネルギー、暗いエネルギーが『青白き焔』となって薄気味悪く吹き上げているのだが、この焔は実は霊たちの眼にも見えない」(同 P106) 「霊魂そのものを悪の世界、暗い地下の世界へ誘い込む不吉な誘惑の誘い手だ」 「この焔は見えないが、しかし焔の穴は見える。そしてそれは大ていはラアの光によって清められることの少ない大きな岩かげとか大木の根元とかにあるのが普通である」(同 P107) 「霊界には多くの祭りや儀式がある」(同 第八章 P138) 「王侯も石積み人夫もないのは確かでも、やはり“不公平”はあるのだ。そして、その不公平はほとんど葬儀が原因になるのが霊界である」(同 第九章 P157) 「大麦畑の中にはシャブチ像たちが沢山働いていた」(同 P158) 「必ず棺の中に入れねばならないものがある。その一つがシャブチ像である。これは一種の人形で大ていは土を焼いてつくった人形である」(同 P159) 「シャブチ像は死者の“従僕”であり、霊界で主人に代わって労働に従事する働き者なのだ」 「ではシャブチ像を納棺するのを忘れたりしたらどうなるか? この場合は死者は働き者の従僕を連れずに一人で霊界へ旅立つことになる。そして、霊は霊界で全ての労働を自分でしなければならなくなる。また、シャブチ像を納棺し忘れなくても、葬儀のやり方や読経に手落ちがあったりすれば結果は同じになる」(同 P160) 「羊の皮で全身をきちんと巻かれてミイラの形にされて読経も受け、そして埋葬された」(同 P163) 〈常に地下の世界への誘惑と戦う必要がある〉のが霊の国だということです。 〈葬儀のやり方、読経に問題があると、霊界での生活に支障が出る〉、〈従僕としてのシャブチ像を納棺するかどうかによって、自分で労働しなくてはならないか、代わりにやってもらえるかの差が生じる〉とされるのです。 〈葬儀や遺体を大切にする〉ことが〈死後の霊魂の生活における幸せに関係する〉ということです。 ミイラにすることも〈霊の世界での身体であるクウが立派なものとして発芽するように〉なのです。 霊はどのようにして地上の人間と話をするのか。 「記憶想起術のようなものを学んだ。それは“人体出現の技術”と呼ばれ、霊はこの技術によって人体に出現し、人間と話をすることもできる。そしてこんな時には人間だった時の記憶が(中略)鮮やかに甦ることもある。私たち霊はふだんバーの状態で霊としての生活をしているが、人体出現の時にはバーよりかなり人間に近いカの状態に自分を変え、人間と話をする」(同 序章 P10) 「時には人体出現の術によって人間と話したくなることがあるものなのだ」 「そんな気持になることがあると多くの霊たちはいっている」 「人体出現の技術によって人間と接触し、霊界のさまざまな話をしたくなっている」(同 P11) 「そうだ。思い出した。私は今、人体出現の法で人間界に近より人間と話していたのだった。自分が霊であることも忘れていた」(同 第六章 P90) 〈人間に近い状態に自分を変えて話をする〉ということによって、〈自分が霊であることも忘れる〉ということになるというのです。 〈霊としての自覚を失う〉ということは一種の危険も伴うようにも思われます。 「クウはそれをさらに完全なものにし、向上させることもできる」(同 第七章 P131) 「クウが向上するとその中に息づいている霊魂すなわちバーもより霊魂として完全なものになって行く」(同 P131―P132) 「クウは光を発する光体に見まがうようになる」 「霊魂としての状態が向上して美しいものや義しいものに対する感受性が強くなること」 「それは『神からの護符』をもらったかの如くに強く義しいクウになって凶霊も悪鬼もその他の闇の勢力も近寄り難くなって自然に逃げていく」(同 P132) 「霊として次第に純化され、人間だった時の人間特有の弱点の残りかすが次第になくなって行くことが霊としての純化で、そうなって初めて極楽訪問が許される」(同 第一二章 P200) 〈人間特有の弱点の残りかすがなくなっていく〉、〈強く正しくなって、闇の勢力も近寄り難くなって自然に逃げていく〉、そのような状態になることが目指されているのです。 〈霊界での身体であるクウの向上〉と〈その中のバーの向上〉の両方が必要ということです。 「クウを完全にする」 「霊界で最高の価値とされているのは正義と真理の二つのシンボル。自らをこのシンボルに近づけようとするのが“自己を向上させる修行”である」(同 第七章 P113) 「誯文」:「精神的な目標を示したもの」 「意識」:「天のラアや神の国のことをつねに意識して暮らす」 「知識」・「義しきこと、美しきことや真理などについて教えたもの」 「掟」:「いろいろな決まりや掟があってこれらも修行の目的にかなうように定められている」(同 P136) 「神々の前にもおめず臆さず堂々と進み出て、誇らしげに行動できるような霊魂にも(中略)修行すればなれる」 「修行は一人一人が自分の心の中でつむべきこと」(同 P137) こうしたものに基づく修行があり、その結果は 「彼の眼にはそれまでは眼に入らなかった世界も見えるようになってくる」 「極楽や神の国といったものもよく見えるようになる。またそれまで見えなかったラアの一そうの輝きなども見えるようになる」 「それが達成されれば極楽や神の国にも行けるし、時にはラアの舟にさえ乗ることが許される」(同 P132) 「美しきもの、義しきものが全て自分にはわかるようになった」(同 P135) 「最高状態を理想としている」 「最高状態にはなかなか達せられずとも、それに達しようとして修行をしているのが霊である」(同 P135) 〈霊魂とは最高状態に達しようとして修行をしているもの〉ということです。 ゾロアスター教・ユダヤ教・キリスト教では、〈地上での義者・信仰者の報いとして、神の住む所・楽園・天国・神の国が与えられました〉が、こちらは〈霊界での修行によって最高状態に達して、極楽や神の国に至る〉ということです。 「クウが死ねば霊魂は永遠に墓場を彷徨う墓場の亡霊や地獄の凶霊の仲間に入ってしまう。しかし、そんなクウも再生させることが全く不可能なわけでもない。これがもっとも大規模に行なわれるのが『死者(霊)の霊魂を肉体(クウ)と合致せる日』といわれる全霊界あげての祭りの日である」 「この祭りは神の国でも地上の霊界でも一緒に行なわれる」 「それまで死んでいたクウもこの日には生き返って自分の霊魂と結び付くことが許される。つまり復活が許される」 「クウとその霊魂がもとのさやに納まって合致した」(同 P133) 「霊魂がその肉体(クウ)と合致し、(中略)つまり霊魂の命を受けて生き返った」(同 P134) ユダヤ教・キリスト教では〈地上で地上で持っていたそのままの肉体を得て蘇ること〉とされる《復活》ですが、ここでは、〈損傷し、また一部を奪われていて死んでいたクウが、霊魂と合致し、霊魂の命を受け取って生き返る〉とされています。つまり〈地上での肉体における復活〉ではなく、〈霊界でのクウにおける復活〉です。 #
by aramu
| 2014-04-30 14:25
| スピリチュアリズムと宗教
「あるとき、正しい物質世界に災いが襲った。われは眠りと目覚めを創り、次いで昼と夜、次に黎明と正午を創れり」(『宗祖ゾロアスター』 P134より) 「神はこの光とやみとを区別された。 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日」(創世記 1・4―5) と創世記にありますが、アフラ=マズダの啓示では、人間の世があって、その後に昼と夜が創造されたことになっています。 「われは王国と完璧な献身の欲求とをともに創れり。われは父による息子の産出をより益あるものとなせり。子づくりは男が女をみることでできる。かくしてわれは父に子を与えり」(『宗祖ゾロアスター』 P135より) 「第一の完全なるものとは正しき心、第二は正しき言葉、第三は正しき行ないなり」 「アマフラ・スパンドの御名こそ正しけれ。アマフラ・スパンドを観想することこそより正しけれ。アマフラ・スパンドに服従することこそ最高の正しさなり」 「初めに二霊ありき。二霊は心と言葉と行為において、より正善なるものと、より邪悪なものであった。二霊は光と闇なりき。光を選ぶ者は光ある存在に列しられ、闇を選ぶ者は闇なる存在に列しられん」(同 P136より) 《二霊》、アフラ=マズダとアングラ=マイニュの〈創造は全く正反対のもの〉とされています。 「我土地を造り、その土地何等の心迷わす美は有らず」(『アヴェスター』 エ゛ンヂダード 第一章 一) 「此処に凡て死たる所のアングラ=マイニュ来たりて、我に対抗して、河には蛇を造り、又ダエワ゛の業たる冬を造れり」(同 三) 「我に対抗して、家畜と樹木とに死を持ち来たらすいなごを造れり」(同 五) 「我に対抗して略奪と罪とを造れり」(同 六) 「我に対抗して蟻及び蟻づかを造れり」(同 七) 「我に対抗して不信神の罪を造れり」(同 八) 「我に対抗して、涙と悲しみとを造れり」(同 九) 「パイリカ=クナータイチを造れり」(同 一〇) 「我に対抗して傲慢の罪を造れり」(同 一一) 「我に対抗して、償うべからざる自然ならざる罪を造れり」(同 一二) 「我に対抗して、妖術の悪事を造れり」(同 一四) 「我に対抗して全く不信神なる罪を造れり」(同 一六) 「我に対抗して償うべからざる罪たる屍體の料理なるものを造れり」(同 一七) 「我に対抗して、婦人に異常の月経と、また野蛮人の圧政を造れり」(同 一八) 「我に対抗して、ダエワ゛の業たる冬季を造れり」(同 二〇) 「ザイリミャングラなるダエワ゛なり、悪口する者これをザイリミャーカと言う。是悪の霊の諸動物の中にて、中夜より日出に至るまで、行きて善の霊の数千の動物を殺す悪動物なり」(同 第一三章 一・六) アフラ=マズダは、〈創造主である〉とされるが、全てのもののではなく、〈アングラ=マイニュが造った有害・有毒な動物などもある〉とされます。 「此処にはせむしなく、腹ふくれなく、虚弱者なく、ふうてん者なく、一人の悪意を有する者なく、虚言者なく、何人も怨まず、何人も嫉まず、何人も歯の落ちることなく、閉じ込められるべき癩病者なく、又はアングラ=マイニュが人體に判押すなる焼印なるもの有ることなし」(同 第二章 二・二九) 「実にそれらのダクマには病毒の伝染、疥癬、熱き熱病、ナエーザ、寒き熱病、せむし、時ならず白髪生ず」(同 第七章 八・五八) 〈不具や病気はアフラ=マズダの創造したものではない〉とされるため、そうした人たちへの差別につながった面も否定できないでしょう。 「されども彼が虚偽と真理ならざる言葉を喜ぶに及びて、光栄は鳥の形を以て彼より飛び去れり。彼の光栄の消え失せるに当たっては、善き牧羊者たる大いなるイマ=クシャエータはふるえわななき、彼の足下に悲しめり。彼は惑い乱れて地に斃れたり」(同 ザミヤード=ヤシト 七・三四) これが創世記の《楽園追放》に並ぶような出来事のようです。 「死者の屍骸の置かれる所のそれらのダクマは、是ダエワ゛等の居る處、是ダエワ゛の軍隊の群がる處」(同 エ゛ンヂダード 第七章 八・五六) 「それらのダクマは、是ダエワ゛等が食を取り又醜き汚物を取る處なり」(同 五七) 「かくて彼等は豪遊し、其の臭気はダクマに根を下ろすまでに及ぶ」(同 五八) 《ダクマ》は〈ダエワ゛の溜り場〉とされています。 中世では 『ゾロアスターの忠告書』に 「私は心霊界からきたのであり、具象界からではない。私は創造されたのであり、みずから成ったものではない。私はアフラ・マズダーに属するものであり、アンラ・マンユにではない。私はヤザタに属するものであり、ダエーワにではない。私は善に属するものであり、悪にではない。私は人間であって、魔物ではなく、アフラ・マズダーの被造物であり、アンラ・マンユのものではない」(同 二)(『ゾロアスターの神秘思想』 岡田明憲 著 講談社現代新書 P76より) 「アフラ・マズダーは、過去、現在、未来永劫にわたって在り、彼の支配は不滅である。彼は無限で、神聖なる者である。アンラ・マンユはしからずして、滅ぶべきものである」(同 三)(同 P81より) 「地獄に落とされた罪人は、終末の日まで苦しむことになるが、結局は世界の建てなおしによって救われるのである。それゆえ、教徒は、自己と世界の運命がいかなるものであるかを知って、善・悪を峻別することを心がけねばならぬ」(同 四)(同 P82より) 「結婚して子孫を残すこと」(同 五) 「大地を耕すこと」(同 六) 「家畜を酷使せず、正しい仕方で飼うこと」(同 七)(同 P82より) 「一日の三分の一は学問をし、三分の一は生活のために働き、三分の一は食事と休息と娯楽に使え」(同 八)(同 P85より) 「善因善果、悪因悪果の応報がある」 「味方はアフラ・マズダーで、敵はアンラ・マンユである」 「唯一の正しい道とは、善思・善語・善行の道で、それはまた、光明と清浄の道である。そしてこの道は、過去、現在、未来永劫に存在する、無限なるアフラ・マズダーの道である」(同 一〇」(同 P86より) 「正しい道に対しては、偽りの道」 「それは、悪思と悪語と悪行の道である。この道は闇黒で、不完全で、禍に満ちた死と邪の道」 「それは、結局は滅ぼされる悪魔アンラ・マンユの道である」(同 一一)(同 P86) 「善と悪の道は、天国と地獄に通じる道である。人間は死後、みずからの霊魂をもって審判を受けねばならない」 「肉体は滅びるが、霊魂は不滅である」 「人間の死後、肉体は地、水、火、風の四大に帰す。しかし彼の霊魂は、裁きのチンワト橋を通過し、生前の善・悪業に応じて、天国、あるいは地獄に赴く」(同 一六)(同 P87より) 〈妻帯し、子を持つことが禁止されない〉、〈大地を耕し、家畜を飼うこと〉、〈娯楽を認める〉という点で、独身・禁欲主義とは大きく異なります。 『アルダー・ウィーラーフの書』では、ゾロアスター教における死後の世界が伝えられているとされます。 「案内するのは、忠直のスラオシャと、火のアータルである」(同 P95より) 「ウィーラーフが善思、善語、善行の三歩を進めると、チンワトの橋に出合った」(同 P95―P96より) 「善者の場合は、橋の幅は広く、やすやすとそれを渡って天国へ行く。しかし、悪者の場合は、橋は剣の刃のうに狭くなり、地獄に墜落する。すべての人は、死後必ずこの橋を渡らなければならない」(同 P96より) 「ミスラやラシュヌを始めとして、多くのヤザタや義人のフラワシが、チンワト橋を通過するウィーラーフを加護した」(同 P98より) 「天国と地獄を見る前に、ウィーラーフはハミスタガーンと呼ばれる世界に案内された。それは、生前の善業と悪業の量が等しい者の場所である」(同 P99より) 「そこは善思界で、天空にあって星辰の運行する場所である。この善思界に住む人々は、その身体が光り輝き、あたかも星のようである」 「善思界の上には、善語界があり、それは月の軌道に当たる。善語界の住人も光輝に満ちて、月に比べられる」 「善語界のさらに上に、善行界がある。この世界は、地上の人間が目にすることのできる最上層で、太陽の軌道上にある。そして、善行界の住人は、黄金に輝き、太陽のように眩しい」(同 P99より) 「しかし、この三善界の住人は、最高天であり狭義の天国に相当する、アフラ・マズダーの住居には入れない。たしかに、彼らの生前なした善行は明らかである」 「『アヴェスタ』中で最神聖な部分とされる、『ガーサー』の章句を奉唱せず、ゾロアスター教で最も称賛する、最近親婚を行なわなかった」 〈善業 つまり善思・善語・善行を実践していれば、ゾロアスター教徒に定められた儀礼や慣習を実行していなくてもこれら下層の天国には入れる〉ということです。〈善業を実践する者であれば、異教徒であっても、こうした下層天国へは入れる可能性がある〉ことになります。 「アフラ・マズダーの住む天国、すなわちガロー・ドゥマーナに歩を進める。この至高天に入るに際して、ウィーラーフは、不死を得るとされる甘露を口にする」 「ウォフ・マナフが彼の手をとり、アフラ・マズダーのもとに導く」 「玉座のアフラ・マズダーとアムシャ・スプンタたち、そしてヤザタと称される多くの神霊たちであった」 「そこには、ゾロアスターや彼の子イサト・ワーストラ、そしてウィーシュタスパや宰相ジャーマースパのフラワシが臨席していた」 「彼は、金銀に飾られた服を着て、光り輝く人々を見る。彼らは、生前、ゾロアスターの宗教を信じ、『アヴェスタ』の祈祷句を唱して、人々に寛大だった者たちである」 「近親婚を行なった者、領民の幸福を図った統治者、正直な者たち」(同 P100より) 「三徳を実行し、夫に忠実だった婦人は、煌く服を着て宝石に飾られて坐っていた。彼女たちは、火や水、大地や樹を大切にし、ゾロアスター教の儀礼をおろそかにしなかったので、このようなすばらしい境遇にあるのだ」(同 P100―P101より) 「ゾロアスター教の聖職者や、勇敢な戦士たち」 「人畜に危害を加える悪動物を殺した者たち」(同 P101より) 〈火や水、大地や樹を大切にする〉、〈領民の幸福を図る〉、〈人々に寛大〉、〈正直〉といった善行が熱心な宗教者であることに加えて重要なのです。 〈良きものの生命を守るためには、悪しきもの、クラフストラを殺さねばならない〉というのは、〈生き物を殺すな〉とする仏教やジャイナ教とは異なる点です。 〈益畜は保護され、養育され、繁殖されねばならない〉ので、〈家畜を虐待することなく、正しい方法で飼う〉ことも死後の天国に入る条件の一つなのです。 〈感慨をして、種を播き、収穫の増大を図ること〉も大切とされます。 (同 P101より) 〈近親婚を行なった者が天国に入る〉というのは、ユダヤ教やキリスト教では認められないことです。 「そこは『嘆きの川』と称され、死者の遺族の流す涙によって作られる。死者の霊魂は、あの世への旅に際して、この川を渡らねばならない。遺族の流す涙が多ければ、それだけ川の水量が増えて、渡河が困難になる」(同 P102より) そして、地獄の描写に入ります。 「スラオシャとアータルにともなわれて見る地獄の光景は、この世では見たことも聞いたこともないほどの凄まじさ。そこは暗く、悪臭に満ち、有害動物があふれ、しかもまったく孤独な場所である」(同 一八) 地獄に落とされた罪とは 「男色者」(同 一九)、「月経中に火や水に近づいた婦人」(同 二〇)、「義者を殺害した者」(同 二一)、「月経中の女と交接した者」(同 二二)(同 P102より) 「話しながら食事をした者」(同 二三)、「姦通罪」(同 二四)、「はだしで歩いた者」(同 二五)、「夫に悪態をついた女」(同 二六)、「桝目をごまかした者」(同 二七)、「悪政を行なった者」(同 二八)、「他人の悪口を言った者」(同 二九)、「不法に多くの家畜を屠殺した者」(同 三〇)、「吝嗇に財を貯めこんだ者」(同 三一)、「虚偽を言った者」(同 三三)、「火に毛を投げ入れた女」(同 三四)、「魔術を行った女」(同 三五) (同 P103より) 「背教者」(同 三六)、「火や水を粗末にしたり、それを汚したりした者」(同 三七)、「火や水を死体で汚した者」(同 三八)、「正当な賃金を払わなかった者」(同 三九)、「虚言、暴言を数多く言った者」(同 四〇)、「公衆浴場に不浄物を持ち込んだ者」(同 四一)、「父に認知されない子」(同 四二)、「みずからの子を認知しない父親」(同 四三)、「嬰児殺しの女」(同 四四)、「偽証と強奪をした者」(同 四五)、「正当な手段によらず、他人の富を奪った者」(同 四六) (同 P104より) 「犬に食物をやらずいじめた者」(同 四八)、「測量を偽った者」(同 四九)、「境界石を移動させた者」(同 五〇)、「偽りの保証を約束した者」(同 五一)、「多数の誓約を破った者」(同 五二) (同 P105より) 「橋の下の地獄からは、大地を揺るがす魔物や罪人の叫びが聞こえ、ウィーラーフは恐怖にとらえられる」(同 P106より) ここから先は、さらに重い罪とされ、地獄として最も暗黒部でのものです。 「聖火を消し、橋を破壊した大罪人である。彼らはまた、虚言、偽証を数多く犯していた」(同 五五)、「宗教的な寄付財産を横領した者」(同 五六)、「彼女は葬式の時に泣き叫び、取り乱した」(同 五七)、「不潔な身体を何度も水で洗って、水の守護天使を苦しめた」(同 五八)、「飢えで泣く子をそのままにしておいた女」(同 五九) (同 P106より) 「多くの既婚婦人と姦通した」(同 六〇)、「地獄の苦悩と天国の至福を疑い、神に感謝しなかった無信仰者」(同 六一)、「主人を軽んじた不貞女」(同 六二)、「主人に反抗し、その財を密かに盗んで蓄えた女」(同 六三)、「姦通した相手の子を孕み、その子を殺した女」(同 六四)、「親不孝の者たち」(同 六五)、「中傷者たち」(同 六六)、「市政を委ねられたにもかかわらず、それをおろそかにした」(同 六七) (同 P107より) 「善思、善語、善行をせず、アフラ・マズダーの教えを信じなかった」(同 六八)、「夫がありながら、他の男と寝た」(同 六九)、「夫との約束を破り、家に戻らなかった女」(同 七〇) 、「同性愛に耽り、しかも巧言により他人の妻を誘惑した男」(同 七一)、「月経の忌みを守らず、火、水、大地等を汚した女」(同 七二)、「化粧によって男を誘惑した」(同 七三)、「不法に家畜を屠殺した者」(同 七四)、「耕作獣に口輪をつけ、食料や水を十分やらずに酷使した者」(同 七五)、「月経中に給仕し、魔術を行った女」(同 七六) (同 P108より) 「家畜を酷使し、重い荷駄を負わせ、傷ついてもかまわぬ者」(同 七七)、「夫以外の子を孕みながら、それを偽り、しかもその子を殺した」(同 七八)、「賄賂を取り、判決を偽った」(同 七九)、「桝目をごまかして商売した者」(同 八〇)、 「魔術を行った姦婦」(同 八一)、「悪舌の女」(同 八二)、「夫に肉を隠して、他の者に与えた女」(同 八三)、「毒を盛った女」(同 八四)、「夫を裏切って、悪人と姦通した女」(同 八五)、「近親婚を破った女」(同 八六)、「子供に乳を与えなかった女」(同 八)、「他人の妻を誘惑し、姦通した男」(同 八八) (同 P109より) 「財を独占し、施しをしなかった男」(同 八九)、「嘘吐き」(同 九〇)、「不公正な裁判官」(同 九一)、「不親切な者」(同 九二)、「旅人に宿を拒み、あるいは彼らから報酬を取る者」(同 九三)、「自分の子には乳を与えず飢えさせ、その一方で、利のために他人の子に乳を与えた女」(同 九四)、「赤子に乳をやらずに置き去りにして、他の男と駆け落ちした」(同 九五)、「大地に播くべき種を食べた者」(同 九六)、「多くの虚言をなし、みずからの魂を欺いた男女」(同 九七)、「死肉を食べ、ビーバーを殺した者」(同 九八) (同 P110より) この中で、〈夫に悪態をつく〉、〈火や水を汚した者〉、〈主人を軽んじた〉、〈嘘をついた〉、〈他人の悪口を言った〉、〈中傷〉等は厳しすぎるとも思えます。 〈月経中に火や水に近づく〉、〈はだしで歩いた〉、〈話しながら食事をした〉、〈火に毛を投げ入れた〉、〈父に認知されない〉、〈葬式の時に泣き叫び、取り乱した〉、〈不潔な身体を何度も水で洗った〉、〈化粧によって男を誘惑した〉、〈近親婚を破った〉等は、ゾロアスター教の信者でなければ、理解できず、守ることは不可能な内容です。 特に〈死等で大いに汚れた場合は牛の尿で洗う〉とされているので、〈そのまま水では洗わない〉のです。 何よりも、〈アフラ・マズダーの教えを信じなかった〉に引っかかり、他の信仰を持つ者とは対立することになります。 「頭をまるめ、髭を剃り。黄色の服を着た邪教徒の身体は腐敗し、その上を蛇や蠍や蛙などがはいまわる」(同 四七)(同 P104―P105より) 仏教徒などがこれによって地獄へ行くことになります。 ですから、先の天国では、〈異教徒でも善業を実践する者は下層天国には入れる可能性がある〉とされたのですが、この地獄において、〈ゾロアスター教徒における悪業、特に善行を行わないこと〉に引っかかると、〈天国へ行けず、地獄に落とされる可能性がある〉ということになり、〈ゾロアスター教徒以外の他の宗教の信仰者で善業を実践する者はどうなるのかはっきりしない〉ということになります。 地獄の刑罰の内容としては 「汚物を次々と食べさせられる」(同 一八)、「頭の皮を剥がれる」(同 二一)、「飢えと渇きに苦しめられる」(同 二三)、「宙づりにされ」(同 二四)、「舌は引き抜かれ」(同 二六)、「土と灰を食べさせられる」(同 二七)、「悪鬼が鞭打つ」(同 二八)、「身体をバラバラにされる」(同 三〇)、「拷問台の上で悪鬼に踏みつけられ、打たれる」(同 三一)、「その身のいたるところを有害動物に食いつかれる」(同 三二)、「身体を蛇に変えられる」(同 三六)、「頭に石臼をのせる」(同 四四)、「悪鬼に脅されながら、指で大地を掘らなければならない」(同 五〇)、「矢、石、斧で責められる」(同 五二)、「鉄櫛で胸を裂かれる」(同 六二)、「泥と悪臭の中に沈む」(同 六五)、「両眼に釘を打たれる」(同 六九)、「片足で逆さ吊りされる」(同 七四) など様々あるとされます。 「右足だけは無事な男がいる。彼は生前にあらゆる悪業をなしたにもかかわらず、右足で草を蹴って牛に与えたので、この右足だけは助かっている」(同 三二)(同 P103より) 「その身体を大鍋で料理されている男がある。しかし、彼の右足だけは外に出ている」 「その右足で多数の有害動物を踏み殺したのである」(同 六〇)(同 P106―P107) 〈善行をした部分だけが刑罰を受けることなく無事〉とされています。 「雪と寒さに苦しみながら、山を背負って運ばなければならない」(同 四〇) 「吹きつける雪や雨、そして寒さに悩まされ、また燃えさかる火の熱と悪臭に苦しみ」(同 五五) 「その身体を大鍋で料理されている」(同 六〇) 「熱した窯を両手でかかえ」(同 六三) 「頭の上には雹が降りかかり、足もとには熔鉱が流れている」(同 六四) 「灼熱した銅の上でみずからの胸をかきむしり」(同 七六) 「真っ赤に焼けたフォークで責められ」(同 七九) 「炎熱と寒冷、飢えと渇きに悩まされ」(同 八九) 「熱や寒風に苦しめられる」(同 九三) 「熱した鍋で乳房を焼かれる」(同 九四) これらは〈寒冷地獄〉、〈熱地獄〉ですが、〈火の熱〉、〈大鍋〉、〈熱した窯〉、〈熔鉱〉、〈熱した銅〉、〈真っ赤に焼けたフォーク〉、〈熱した鍋〉は出て来ますが、直接に炎の中で焼かれるというものはありません。 「火は人を殺すものに非ずして」(『アヴェスター』 エ゛ンヂダード 第五章 二・九) が地獄にさえ及んでいるということです。 この点は他の宗教と大いに異なります。 「主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ」(レビ記 10・2) 「主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした」(民数記 16・35) 「天から火が下って来て、先のふたりの五十人隊の長と、彼らの部下五十人ずつとを、焼き尽くしてしましました」(列王記 Ⅱ 1・14) 「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました」(ヨブ記 1・16) と、旧約聖書では、何度も主の火が人間を何人も焼いていることが伝えられています。 「汝に我が供物と敬いとを捧ぐ、ああ汝アフラ=マズダの火よ」 「願わくは汝はマズダを礼拝する人々の家に留まらんことを。かの真実の心を以て、手に薪をとって、バレスマを用意し、手に肉を持ち、又臼を持ちて汝を礼拝する」(『アヴェスター』 ヤスナ 六二・一) 「ああアフラ=マズダの子たる火よ」(同 四) 「アフラ=マズダの子なるアータルに」(同 アータス ニヤーイシ 五) 《拝火教》とも言われるゾロアスター教は、火に礼拝を行います。 〈火はアフラ=マズダの子〉とされているということです。 ユダヤ教では〈燭台のともしび〉は主へ向けられてのものです。 「我等はアシワ゛ン=グヒに供物を捧ぐ」(同 アシ=ヤシト 一・一) 「女神はアフラ=マズダの娘たり、アメシャ=スプンタ達の妹にして、よくサオシュヤント達に力附ける所の智慧を与う」(同 二) 〈アフラ=マズダの娘とされる女神〉に信仰しているということです。 このように、〈主なる神の息子、娘〉がいるとされて、信仰されていたということです。 地獄に関連することを、『死者の書』における“凶霊の国”に関連することで見てみると 「天でも地でもないツアト地下の世界」 「“死霊”の行く凶霊の国」(『死者の書』 第三章 P39) 「私たち審判を通過した霊たちの中にも時にはツアトに落ちこむことがある者もいて」 「霊たちの住んでいる「地」にはその僻地ともいうべき場所がある。それが墓場のことに他ならない。そしてその墓場とはそれぞれの霊が葬られた自分の墓場なのだ」 「霊には完全な霊バーと不完全な霊とでもいうべきカの両者がある」 「われわれ霊たちは時によってバーの状態になったりカの状態になったりしているのだ」 「カの状態になった霊の住み家が人間だった時の墓場なのだ。その墓場を住み家として、そこにそなえられた葬儀の時の供物などを食べてカは生きている」 「だから、墓場の周囲は一つの大きな霊の国になっているのだといっていい」(同 P40) 「霊の体、霊体、クウだが、凶霊との出会いなど幾つかの原因でクウは腐ったりする危険にさらされることがある」(同 P43―P44) 「アテメントの入江とは、霊界、つまり地上から死者の国への入口にある入江のこと。死者の国への入口だから当然それは歓迎されざる入口ということになる」 「墓場なども一種のアテメントの入江、つまり下界への不吉な通路、落とし穴」 「カの状態にあることは霊にとっていい状態でなく迷いや悩みの亡霊的な要素も彼には入ってくる。そんな霊は凶霊の手引きや誘惑で地下の国に引きずり込まれる危険も多い。だからカの状態の霊の出没する墓場はアテメントの入江になることが多いわけだ」(同 P44) 『アヴェスター』では、墓場であるダクマが〈ダエワ゛の溜まり場〉であるとされていましたが、同じように〈凶霊の危険のある場所〉であるということです。 #
by aramu
| 2014-04-28 18:07
| スピリチュアリズムと宗教
戒めや命令、掟が宗教では示されています。 啓示でも、大きな部分を占められていると言えるでしょう。 「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(創世記 1・28) 「わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる」(同 1・29) これが最初の戒めにつながります。〈すべての草、すべての木があなたがたの食物〉ということは、〈魚、鳥、動物等は食べてはならない〉ということになります。 しかし、これにさらに戒めが加えられます。 「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ」(同 2・17) この最初の戒律が破られたと伝えられます。 そして 「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。 あなたは、苦しんで子を産まなければならない」 「彼はあなたを支配することになる」 (同 3・16) 「あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない」(同 17) 「あなたは、野の草を食べなければならない」(同 18) あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る」 「あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない」(同 19) ここで〈女は男を主人とする〉という男女差別のもととなるようなものが出て来ています。 〈苦しんで働いて汗水流して糧を得るべし〉というものも出ています。 ここでも、〈野の草を食べなければならない〉ということですから、〈肉食は許されていない〉ということになります。 「神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった」(同 23) 罰は〈エデンの園の追放〉ということです。 「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」(同 4・2) 「カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」(同 3―4) その結果は 「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった」(同 4―5) 後の時代の見方からすれば、奇妙に思われますが、この時代においては、〈地の作物は人間のための食べ物〉であったからでしょう。 しかし、この結果から、初の兄弟殺しの殺人が生じたとされます。 「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ」(同 12) 最初の罰は〈さすらい人となること〉、つまり〈追放刑〉ということです。 「だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」(同 15) これによって、まだ〈死刑は存在していなかった〉ということになります。 そして 「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。 しかし、肉は、そのいのちである血のままで食べてはならない」(同 9・3―4) 「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。 人の血を流す者は、 人によって、血を流される」(同 5―6) ここで〈血を除いた生きて動いていたものが食物〉とされました。 また、〈血を流したものは血を流される〉、〈命を奪った者は奪われる〉ということが出てきました。 これが初期の戒めということです。 戒めと掟の元は〈死後審判にある〉とも言えます。 〈死後審判において罪とされないための指標〉がそのまま戒め、掟になるとも言えるでしょう。 「正義と真理とを将来せり」 「我は邪悪を破壊せり」 「我は人類に対して危害を加える悪を行なわなかった」 「我は我が家族の者等を圧政しなかった」 「我は正義と真理との代わりに悪を行なうことがなかった」 「我は無価値の人々の知識をさらに持つことはなかった」 「我は悪を行なわなかった」 「我は過度の労働が我が為に行なわれることを毎日の第一の詮議とはさせなかった」 「我は崇められて栄誉を受ける為に、我が名を提出したことはなかった」 「我は奴僕を虐待したことはなかった」 「我は被圧政者よりその財産を詐取したことはなかった」 「我は神々にとって忌み嫌うべきことは為せしことはなかった」 「我は主人をしてその奴僕に害を加えさせることはなかった」 「我は苦痛を生じさせたことがなかった」 「我は何人をも飢えに苦しめさせることがなかった」 「我は何人をも号泣させることがなかった」 「我は虐殺を行なったことがなかった」 「我は我が為に虐殺を行なうべしとの命令を発したことがなかった」 「我は人類に苦痛を蒙らせたことはなかった」 「我は諸々の神殿よりその奉納物を詐取したことがなかった」 「我は神々の菓子を窃取したことがなかった」 「我は諸々のクウに捧げられた菓子を運び去ったことがなかった」 「我は苟合を行なったことはなかった」 「我は我が都の神々の諸聖地にて自ら己を汚したことはなく、また桝目を減らすことがなかった」 「我は陸地を加倍したこともなく、また之を盗んだこともなかった」 「我は他人の田畑を横領したことがなかった」 「我は買い手を欺く為に秤皿の指針を誤読したことがなかった」 「我は子供等の口より乳を運び去ったことはなかった」 「我はその牧場にある家畜を追い払ったことがなかった」 「我は神々の猟場にある羽禽を罠にて捕えたことがなかった」 「我は同じ種類の魚にて作れる餌にて魚を捕えたことがなかった」 「我は水が流れる時にそれを遡らせようとしたことがなかった」 「我は流水の運河に決壊所を作ったことがなかった」 「我は火もしくは光が燃えるべき時に、それを消したことがなかった」 「我は精選せる素祭を捧げる時間を犯したことがなかった」 「我は神々の財産中より家畜を追い払ったことがなかった」 「我は神の出現する時、之を撃退したことがなかった」 「我は清浄なり」 (『死者の書』 第一二五章より) こうした〈否定告白〉の内容は、そのまま〈神の掟〉であり、〈神の戒め〉であると言えるでしょう。 他界した魂の、四十二の神々に対して行なわれる否定告白の内容にて死後審判はなされるとのことです。 「我は不正を行なわなかった」 「我は暴力を以て、略奪をしなかった」 「我は何人も暴行をしなかった」 「我は窃盗を行なわなかった」 「我は男をも女をも殺さなかった」 「我は桝目を軽くしなかった」 「我は他の人への偽善の行ないをなさなかった」 「我は神に対する事物を窃取しなかった」 「我は虚言を発しなかった」 「我は食物を運び去らなかった」 「我は悪言を発さなかった」 「我は何人も攻撃しなかった」 「我は神の財産たる動物を殺さなかった」 「我は神を用いての偽善の行ないをなさなかった」 「我は耕作された土地を荒廃させることがなかった」 「我は決して害悪を為さんとして、事物を窺うことをしなかった」 「我は如何なる人にも反対して口を動かさなかった」 「我は理由なくしては己に関して譲歩したことがなかった」 「我は人の妻を汚せしことはなかった」 「我は清潔に反対しての何等の罪も犯さなかった」 「我は何人にも恐怖を起こさせなかった」 「我は聖なる時と季節とを犯さなかった」 「我は怒りの人ではなかった」 「我は正義と真理との言葉に聾ではなかった」 「我は争いを煽動しなかった」 「我は何人をも号泣させなかった」 「我は不潔の行ないをしたことがなく、尚又人と同衾したことがなかった」 「我は我が心臓を食べたことがなかった」 「我は何人も侮辱したことがなかった」 「我は暴力を以て動作したことがなかった」 「我は軽率に判断したことがなかった」 「我は人に復讐したことはなかった。又、我は神に復讐したことはなかった」 「我は我が言葉を過多に増殖したことはなかった」 「我は偽りを以て動作したことはなく、又邪悪を行なったことはなかった」 「我は王に呪詛を発したことはなかった」 「我は水を不潔にさせることがなかった」 「我は我等を驕り高ぶらさせることがなかった」 「我は神を呪いしことがなかった」 「我は不遜を以て動作したことはなかった」 「我は顕達を求めたことはなかった」 「我は正当に我が所有物なるものを以てするのでなければ、我が財産を増加させることがなかった」 「我は我が都にある神を心に侮ることはなかった」 こうした〈否定告白の内容〉を“~するべからず”とすれば命令、“~しないようにすること”とすれば戒めとなります。 「あなたには私のほかに他の神々があってはならない」(出エジプト記 20・3) 「あなたは自分のために、偶像を造ってはならない」(同 4) 「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」(同 5) 「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」(同 7) 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(同 8) 「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたあどんな仕事もしてはならない」(同 10) これらの戒以外は、エジプトの否定告白の中に出て来ていると言えるでしょう。 つまり、〈多神教を信じているから、罪を犯し、悪人となるとは限らない〉ということです。 次に『死者の書』では〈否定ではない告白〉も出てきます。 「我は正義と真理とを食物とす」 我は神々を喜ばすことは勿論、人間の命令を実行した」 「我は神の意志たることを実行し、これによりて神と相和らげさせようとした」 「我は飢えたる人にパンを与え、渇いた人に水を与え、裸なる人に衣服を与え、破船した水夫に舟を与えた」 「我は神々に聖なる供物を捧げ、諸々のクウに墓内の食事を与えた」 「我は口に就いても、また手に就いても潔し」 「我は神々に祈りを捧げた」 「我は正義と真理とを声明し」 「正義と真理との主に対し、正しく且つ真実なることを行なった」 (『死者の書』 第一二五章より) これらは善行について述べたものと言えるでしょう。 こうした戒めを守り、善行を行なった結果は極楽とされます。 「極楽のことを霊界ではセケトヘテペト、つまり『平和の野』と呼んでいる」(『死者の書』 第一二章 P200) 「私は自分の心が美しい平和な気分になるのを感じた」 「大河が流れているのが眼に入った(中略)水は清く澄み、明るく平和なラアの光を反射した水面は小さな波を立てながらゆっくりと流れている」 (同 P204) 「極楽に行くと必ずこのように生前の家族でそこにいる者に迎えられるのだ」(同 P205) 「私の眼前に美しい湖水の風景が開けた。湖岸には砂が敷き詰められていたが、その砂はただの砂ではなかった。緑や金色など美しい彩りの宝石とまごうばかりの美しい砂だった」(同 P205―P206) 「湖岸はオリーブの樹木でいっぱいでそれがみな美しい実をつけているのだった」 「空にはそよ風が渡っていたが、その風にさえ美しい香りがしているようだった」 「そこは大麦、小麦の麦畑だった。麦畑では刈り入れが行なわれていた」(同 P206) 「人の現世にてなす如く全てのことをなす」 「極楽には碁将棋のような娯楽だってある」 「男女の霊が愛を結ぶことだってあるという」(同 P208) 「ケンケンが神酒に最初の一口をつけた後は参列する霊たちにもご馳走がふるまわれる。神酒も霊たちに配られる」(同 P210) 「極楽では農作物も地上の霊界よりよく育つので労働はいたって軽い」(同 P213) 「ここには、将棋も音楽も、ゲームも本も、その他もろもろ現世と同じ楽しみがあるんですよ。おかげで退屈しませんよ」 「極楽には苦しいことはない。だから現世よりはるかに素晴らしい」 「まことに現世に似ているのが極楽なのだ」(同 P214) 〈極楽とは、現世よりも、苦しいことはなく、素晴らしい世界だが、現世と同じような楽しみがある、現世によく似ている世界〉ということです。 「極楽の永住を許される霊はそう多くはない。ましてや一族が揃って許されるとなればさらに稀になる」 (同 P212) 〈許されない限りは、現世で愛し合っていた家族であっても、一緒には住めない〉ということで、その意味では〈完全に幸せな世界〉とは言えないかも知れません。 〈食べ、飲み、地上よりは軽いが働き、娯楽をする〉というのが極楽の住人の在り方だということです。 「ヰ゛ーザレシャと称する悪魔は罪に生ける不義なるダエ゛ワ崇拝者の霊魂を縛りて運び去らん」 「アフラ=マズダに造られたる神聖なるチンワ゛ット橋の袂において、彼等はその精神と霊魂との為に、此の世に在って行ないたる善き行ないの報酬を求めるなり」(『アヴェスター』 エ゛ンヂダード 第一九章 五・二九) 「此処に於いて美しくて、形善き健やかにして姿よく、善く判別し、多くの子あり、幸福にして理性ある少女は、左右に犬を従いて来たらん」 彼女は、義者の霊魂をハラ=ベレザイチに登り行かせる。チンワ゛ットの橋より登らせてその霊魂を天上の神々の前に置かん」(同 三〇) 「ヲフ=マノーは黄金の座より起ち上がりて呼びて曰く『ああ汝神聖なる者よ、汝は如何にしてかの朽ち果てる世界より、朽ちざる世界に、吾等の許に来たりしや』と」(同 三一) 「義者の霊魂は歓びてアフラ=マズダの黄金の座に、アメシャ=スペンタスの黄金の座に、ガロー=ヌマーネムに進み行かん。これアフラ=マズダの坐します所、アメシャ=スペンタ達の坐す所、その他神聖なる者の坐す所なり」(同 三二) 「不義にして、悪を行なうダエワ゛等は、かの清められたる神聖な人の、死後の霊魂の香気にふるえ恐れること、恰も狼が羊に向かって言うが如きなり」(同 三三) 「義者の霊魂は此処に集まれり。ナイリョー=サンガは彼等と共にあり。アフラ=マズダの使者はすなわちナイリョー=サンガなり」(同 三四) 「神聖なる者等の輝きて幸福多き極楽」(同 三六) 「彼極楽に入る時は、星も、月も、日も、彼を歓迎して言わん。 『ああ人よ、汝を祝す。滅ぶる世界より、滅びざる世界に今しも来たりし汝を祝す』と」(同 エ゛ンヂダード 第七章 八・五二) 「爾の歌の家にて、親しく爾の顔を見て、爾に供物を捧げる聖き徒の讃美を聴くことを得ん」(同 ヤスナ 一五・四) 義者はアフラ=マズダの住居のある所、極楽へとチンワ゛ットの橋を渡り至るとされています。 「イマの治めた世には、寒さも暑さも激しきことなく、老いなく死なく、悪魔の造りし嫉妬なるものも有らざる。宛も十五歳のものの如く、子と父とは同じ丈と同じ形とにて二人は相歩めり」(同 ヤスナ 二六・五) 「彼の治世には食物を要する動物には養いの欠けることなく、羊も人間も死することなく、水も草木も枯れることあらざりき」(同 ザミヤード=ヤシト 七・三二) 「彼の治世にて、彼が未だ偽ることなく、未だ偽りと真理ならざることを好まざるまでは、寒き風なく熱き風なく、老いなく死なく、又はダエワ゛の造る嫉妬なるものもあらざりき」(同 三三) 〈イマの治めた世には、激しい寒さも暑さも、老いも死もなかった〉とされます。 「大戦争の戦われんとする時(中略)今や正しき復讐がこれ等の悪の徒の上に来たらん」 「虚偽の悪魔を正義の秩序の両手に引き渡す」(同 ヤスナ 四・八) 「一旦完全の域に達する時は、破壊の打撃は虚偽の悪魔の上に落ち来たり、その信者等は彼女と共に滅び去らん」(同 一〇) 「其の光栄は勝利あるサオシュヤントと、又それを助ける者等に帰すべし。それ、彼が世界を恢復せん時は、是より後は老いることなく、死することなく、枯れることなく腐ることなく、常に生き常に増し、よくその思いの主となりて、死したる者は蘇り、生命と不死との来たらん時は、世界はその思うがままに恢復せらる」(同 ザミヤード=ヤシト 一五・八九) 「創造―すなわち善の霊の栄える創造―が不死となる時は、たといヅルジは神聖なる者等を殺さんとして、あらゆる方に突き進まんとも、彼女は滅ぶべし。彼女とその百倍の眷族は滅ぶべきのみ。是神の意なり」(同 九〇) 「彼は叡智の目を以て、悪の種なるパエーシンの凡ての動物を見下すべし。彼は豊饒の目を以て生ける者の全世界を見下すべく、彼の眺めは生きとし生ける凡てのものを不死ならしめん」(同 一六・九四) 「何等の栄えなき所のアエーシマは跪きて遁れ去らん。彼は悪の種にして闇黒より生まれたる最も不義なるヅルジを破らん」(同 九五) 「アケム=マノーは打ち来ると雖も、ヲ゛フー=マノーは彼を打たん。虚偽の言葉は打ち来ると雖も真理の言葉は彼を打たん・ハウルワ゛ダートとアメレタートとは餓えと渇とを打たん」 「悪を行なうアングラ=マイニュは跪きて遁れ、力なき者とならん」(同 九六) これが《終末の日》、《大戦争》と呼ばれるものです。黙示録の《ハルマゲドン》と同じでしょう。 サオシュヤントは〈生きとし生ける者を老いることもない不死とする〉とされます。 「彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(ヨハネの黙示録 20・9―10) 「一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた」(同 12―14) 「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げこまれた」(同 15) 「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある」(同 21・8) これらは旧約にも述べられています。 「彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる」(エゼキエル書 38・22) 「わたしはマゴグと、島々に安住している者たちとに火を放つ」(同 39・6) 「あなたの死人は生き返り、 私のなきがらはよみがえります。 さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。 あなたの露は光の露。 地は死者の霊は生き返らせます」(イザヤ書 26・19) 「その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに」(ダニエル書 12・1―2) 《最後の大戦争》が《最後の審判》になっています。 中世になると 『ブンダヒシュン』は「世界の終末に彗星が落下して、地球に大火が発生する」、「その大火により、山中の鉱物が熔け、熔鉱が大地の上を川となって流れる」、「すべての人々は、その熔鉱の中を通過しなければならず、またそれにより浄められる」、「この熔鉱を通過する際、悪者はもだえ苦しむが、善者はかえって心地よく感じる。善き人々にとって、それは温かい乳のようである」、「大地を浄化する熔鉱は、最後に蛇の姿をした悪魔を焼き、暗黒界への出口を塞ぐ」(『ゾロアスターの神秘思想』 岡田明憲 著 講談社現代新書 P116―P117より)、「神は、大地から骨を、水から血を、植物から毛を、風から生命を求めて、死者を元通りに組み立てる」、「まず第一に復活するのは、悪魔によりて殺された原人、ついで人類最初の男女、それから五十七年間かけてすべての死者が復活する」、「死者が復活する場所は、彼らが死んだ場所と同じである」、「再会した彼らは、連れ立って総審判の場に臨む。そして、そこで不義者と義者は分離される。親子、兄弟、友人といえども、一方が天国へ、他方が地獄へと」、「三日三晩にわたる天国での至福の時を義者は過ごし、同じ期間、不義者は再び地獄で苦しむ」、「この後、義者も不義者も、熔鉱の浄めをうける」(同 P118―P119より)と述べているそうです。 しかし、「熔鉱の浄めを通して、不義者も結局は救われる」、「新しい世にあっては、すべての人は同一の言語を話し、アフラ・マズダーと天使たちを称賛する。そして、白ハオマと聖牛の脂をまぜた食物をとって不死となる」(同 P119より)と述べているそうです。 〈火による終末の日〉、〈最後の審判〉、〈肉体を持っての復活〉と一致しています。 違いは〈熔鉱の清めにより、不義者も救われる〉となったところです。 もともとは 「凡て不善なるものはヅルジが形を成せるものにして、裁判官を軽蔑する者なり。すべて裁判官を軽蔑する者は君主に対して反逆する者なり、凡て君主に対して反逆する者は不信神の者なり、凡て不信神なる者はその罪死に当たる」(『アヴェスター』 エ゛ンヂダード 第一六章 三・一八) 「虚偽の家は永久に彼等の住家たるべし」(同 ヤスナ 一一。一一) とあるように、〈不善なる者は永久に虚偽の家の住人〉というものでした。 「下なる世界に在って、その行ないに対する苦痛は、此の世界に於けるが如く厳しくして、真鍮の刃を以て、彼の肉体より手足を切り離す如きか、又は尚一層に甚だしかるべし」(同 エ゛ンヂダード 第四章 四・五〇) 「真鍮の釘を、彼の肉体に打ち込む如きか、又は尚一層に甚だしかるべし」(同 五一) 「人間の丈を百倍したる断崖の上より、力を以て投げ落されるが如きか、又は尚一層に甚だしかるべし」(同 五二) 「力を以て彼の肉体に杙を刺し込む如きか、又は尚一層に甚だしかるべし」(同 五三) こうした地獄に到る罪とされるものには独特のものもあります。 「我に対抗して、償うべからざる罪たる、死者の埋葬なるものを造れり」(同 第一章 一三) 「かの土地を耕す信神なる者に、深切に、敬虔に与えざる者は、(中略)地獄の世界に投げ落さん、無間地獄に投げ落とさん」(同 第三章 三五) 「死人の身に、或いは衣服、或いは少女が糸つむぐ時に落とす程のものたりとも、之をまとわす者は、生ける間は決して信神なる者とは謂うべからず。死後も決して極楽に到ることあたわざる」(同 第五章 八・六一) 「汚物と共に屍骸を、水又は火に入れて其れを不浄ならしめた者」(同 第七章 四・二五) 「人若し故意に自然ならざる罪を犯す時」 「永久に永久に償い得ざる犯罪なり」(同 第八章 五・二七) 「若し其の犯罪者にしてマズダの教えの教師なるか、又は其の教えを教えられし者たる時」(同 二八) 「火にてナスが焼かれ又は料理され居る時」(同 八・七三) 「そのナスを料理する人を殺すべし」(同 七四) 「マズダの法則に従える浄めの儀式を知らずして、不浄を浄めんとする者ある時」(同 第九章 三・四七) 「此の背に針の如き毛ありて、長き薄き口尖ある犬、すなわちワ゛ンガーバラの犬、悪口する者ツ゛ザカと言う犬を殺す者は(中略)生前に其の罪を償わざる時は、チンワ゛ットの橋を渡ることあたわざる」(同 第一三章 一・三) 「牧羊犬、又は家犬、又はヲ゛フナズガの犬、又は訓練されたる犬を打つ者」(同 二・八) このような独特の罪があり、〈死者に衣服をまとわせないこと〉、〈埋葬しないこと〉は他の宗教とは異なるところで、対立する場合もあります。 火は神聖なものとされ、死体を焼いてはならないとされますので、火葬も、後に異端者等をキリスト教にて火刑にしましたが、それも罪とされることになります。 他にユダヤ教・キリスト教と共通する罪もあります。 「犬又は人間の屍骸を食いし者」(同 第七章 四・二三) 「男子が女性と寝、女子が男子と寝る如く、男子にして男子と寝る者は、是ダエワ゛の人なり。此の者はダエワ゛の崇拝者なり」(同 第八章 五・三二) ユダヤ教・キリスト教と最も異なる部分があります。 「ここに我が造りし者たるヲ゛フ=マノーあり」 「ここに我が造りし者たるアシャ=ワ゛ヒシタあり」 「ここに我が造りし者たるクシャトラ=ワ゛イリャあり」 「ここに我が造りし者たるスペンタ=アールマイチあり」 「ここにハウルワ゛タートとアメレタートあり」(同 オルマズド=ヤシト 二五) 「我は信者の為にハウルワ゛タートの援助と、喜悦と、慰めと、快楽とを造りて、それらを、アメシャ=スペンタ達の一つとして汝に来る所の彼に結び合わせたり。そは彼はヲ゛フ=マノー、アシャ=ワ゛ヒシタ、クシャトラ=ワ゛イリャ、スペンタ=アールマイチ、ハウル=ワ゛タート及びアメレタート等のアメシャ=スペンタ達の何れにも来るべきであるから」(同 コルタード=ヤシト 一) 「ああスピタマ=ザラツシュトラよ、此の我が泉たり、いや広まり、又健康を与えるアルヅヰ゛=スーラ=アナーヒタに供物を捧げよ」(同 アーバン=ヤシト 一) 「ああスピタマよ、真に我が広き牧場の君たるミトラを造るや、我は彼を供物を受けるに値し、又我マズダに対する如く、祈祷を受けるに価するものとして造れり」(同 ミヒル=ヤシト) 「我は、善良にして、強き、恵みある信者の精霊を讃美し、之を呼び求め、之を念じ、我らは之に供物を捧ぐ」(同 ファルワ゛ルヂーン=ヤシト 二・二一) 「アフラに造られたエ゛レトラグナに供物を捧げ」(同 バーラーム=ヤシト 四八) 「アリヤ民族をして彼に灌禮を捧げしめよ、アリヤ民族をして彼に対してバレスマの束を捧げしめよ」(同 五〇) 唯一神のみを信仰するユダヤ教と異なり、ザラツシュトラの教えを信仰していた者たちは、マズダ信仰から、神々であるアメシャ=スプンタ、そして、ミトラ、アナヒータ女神 ヤザタ、義者の精霊たち フラワシをも信仰し、供物を捧げるようになりました。 このうち《ミトラ》はキリスト教における《子なる神》、《アメシャ=スプンタ》は《七大天使》に相当します。 〈アメシャ=スプンタはアフラ=マズダの分神〉と言えます。 こうして、《マズダ教》は《ゾロアスター教》へと変化していきます。 「彼等は凡て七體にしてその思想は一つなり。彼等は凡て七體にしてその言葉は一つなり。彼等は凡て七體にしてその行ないは一つなり。彼等の思想も同じく、彼等の言葉も同じく、彼等の行為も同じく、彼等の父も命令者も亦同じく、創造者アフラ=マズダなり」(同 ファルワ゛ルヂーン=ヤシト 二三・八三) 〈アメシャ=スプンタは七体あっても、その思想・言葉・行為は一つであり、それはアフラ・マズダによる〉というのです。 つまりは、唯、アフラ=マズダの思想・言葉・行為を行なっているということです。 ゾロアスター教でのアフラ=マズダの啓示はどのようなものだったのでしょう。 「ゾロアスターよ、生みの親はわれなり。天則の父にして養い親はわれなり。 太陽と星辰の軌道を創りし者もわれなり。 月の満ち欠けを知りし者もわれなり」(『宗祖ゾロアスター』 前田耕作 著 ちくま新書 第3章 ゾロアスターの生涯 P133より) 「支えもなく落ちない天と地とを分かち守りしはわれなり。水と草木を創りし者はわれなり。足疾き風を創りしもわれなり。さればわれのもとに来たりて、つねに大地に最高の報応たる雨を授けるワフマンとワートに加われ」(同 P133―P134より) 「ゾロアスターよ、世界中の被造物をワフマンを通して創りしはわれなり」 アフラ=マズダは自らが創造主であると語ります。 「三千年間、われ万物を創造せしが残りしものあり、ゾロアスターよ、それは老いと死なり。 この三千年間、飢えも渇きもなく、眠りも目覚めもなく、老いも死もなく、寒風も熱風もなく、わが世は不死であり、正しく存在するものは光り輝いていた」(同 P134より) 〈老いと死、飢え、渇き、寒風と熱風はアフラ=マズダは創造していない〉と語ります。 この〈三千年〉が他の神話で《黄金時代》と呼ばれるもので、聖書における楽園 、《エデンの園》に相当します。 #
by aramu
| 2014-04-24 00:43
| スピリチュアリズムと宗教
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