戒めや命令、掟が宗教では示されています。 啓示でも、大きな部分を占められていると言えるでしょう。 「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(創世記 1・28) 「わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる」(同 1・29) これが最初の戒めにつながります。〈すべての草、すべての木があなたがたの食物〉ということは、〈魚、鳥、動物等は食べてはならない〉ということになります。 しかし、これにさらに戒めが加えられます。 「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ」(同 2・17) この最初の戒律が破られたと伝えられます。 そして 「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。 あなたは、苦しんで子を産まなければならない」 「彼はあなたを支配することになる」 (同 3・16) 「あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない」(同 17) 「あなたは、野の草を食べなければならない」(同 18) あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る」 「あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない」(同 19) ここで〈女は男を主人とする〉という男女差別のもととなるようなものが出て来ています。 〈苦しんで働いて汗水流して糧を得るべし〉というものも出ています。 ここでも、〈野の草を食べなければならない〉ということですから、〈肉食は許されていない〉ということになります。 「神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった」(同 23) 罰は〈エデンの園の追放〉ということです。 「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」(同 4・2) 「カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」(同 3―4) その結果は 「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった」(同 4―5) 後の時代の見方からすれば、奇妙に思われますが、この時代においては、〈地の作物は人間のための食べ物〉であったからでしょう。 しかし、この結果から、初の兄弟殺しの殺人が生じたとされます。 「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ」(同 12) 最初の罰は〈さすらい人となること〉、つまり〈追放刑〉ということです。 「だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」(同 15) これによって、まだ〈死刑は存在していなかった〉ということになります。 そして 「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。 しかし、肉は、そのいのちである血のままで食べてはならない」(同 9・3―4) 「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。 人の血を流す者は、 人によって、血を流される」(同 5―6) ここで〈血を除いた生きて動いていたものが食物〉とされました。 また、〈血を流したものは血を流される〉、〈命を奪った者は奪われる〉ということが出てきました。 これが初期の戒めということです。 戒めと掟の元は〈死後審判にある〉とも言えます。 〈死後審判において罪とされないための指標〉がそのまま戒め、掟になるとも言えるでしょう。 「正義と真理とを将来せり」 「我は邪悪を破壊せり」 「我は人類に対して危害を加える悪を行なわなかった」 「我は我が家族の者等を圧政しなかった」 「我は正義と真理との代わりに悪を行なうことがなかった」 「我は無価値の人々の知識をさらに持つことはなかった」 「我は悪を行なわなかった」 「我は過度の労働が我が為に行なわれることを毎日の第一の詮議とはさせなかった」 「我は崇められて栄誉を受ける為に、我が名を提出したことはなかった」 「我は奴僕を虐待したことはなかった」 「我は被圧政者よりその財産を詐取したことはなかった」 「我は神々にとって忌み嫌うべきことは為せしことはなかった」 「我は主人をしてその奴僕に害を加えさせることはなかった」 「我は苦痛を生じさせたことがなかった」 「我は何人をも飢えに苦しめさせることがなかった」 「我は何人をも号泣させることがなかった」 「我は虐殺を行なったことがなかった」 「我は我が為に虐殺を行なうべしとの命令を発したことがなかった」 「我は人類に苦痛を蒙らせたことはなかった」 「我は諸々の神殿よりその奉納物を詐取したことがなかった」 「我は神々の菓子を窃取したことがなかった」 「我は諸々のクウに捧げられた菓子を運び去ったことがなかった」 「我は苟合を行なったことはなかった」 「我は我が都の神々の諸聖地にて自ら己を汚したことはなく、また桝目を減らすことがなかった」 「我は陸地を加倍したこともなく、また之を盗んだこともなかった」 「我は他人の田畑を横領したことがなかった」 「我は買い手を欺く為に秤皿の指針を誤読したことがなかった」 「我は子供等の口より乳を運び去ったことはなかった」 「我はその牧場にある家畜を追い払ったことがなかった」 「我は神々の猟場にある羽禽を罠にて捕えたことがなかった」 「我は同じ種類の魚にて作れる餌にて魚を捕えたことがなかった」 「我は水が流れる時にそれを遡らせようとしたことがなかった」 「我は流水の運河に決壊所を作ったことがなかった」 「我は火もしくは光が燃えるべき時に、それを消したことがなかった」 「我は精選せる素祭を捧げる時間を犯したことがなかった」 「我は神々の財産中より家畜を追い払ったことがなかった」 「我は神の出現する時、之を撃退したことがなかった」 「我は清浄なり」 (『死者の書』 第一二五章より) こうした〈否定告白〉の内容は、そのまま〈神の掟〉であり、〈神の戒め〉であると言えるでしょう。 他界した魂の、四十二の神々に対して行なわれる否定告白の内容にて死後審判はなされるとのことです。 「我は不正を行なわなかった」 「我は暴力を以て、略奪をしなかった」 「我は何人も暴行をしなかった」 「我は窃盗を行なわなかった」 「我は男をも女をも殺さなかった」 「我は桝目を軽くしなかった」 「我は他の人への偽善の行ないをなさなかった」 「我は神に対する事物を窃取しなかった」 「我は虚言を発しなかった」 「我は食物を運び去らなかった」 「我は悪言を発さなかった」 「我は何人も攻撃しなかった」 「我は神の財産たる動物を殺さなかった」 「我は神を用いての偽善の行ないをなさなかった」 「我は耕作された土地を荒廃させることがなかった」 「我は決して害悪を為さんとして、事物を窺うことをしなかった」 「我は如何なる人にも反対して口を動かさなかった」 「我は理由なくしては己に関して譲歩したことがなかった」 「我は人の妻を汚せしことはなかった」 「我は清潔に反対しての何等の罪も犯さなかった」 「我は何人にも恐怖を起こさせなかった」 「我は聖なる時と季節とを犯さなかった」 「我は怒りの人ではなかった」 「我は正義と真理との言葉に聾ではなかった」 「我は争いを煽動しなかった」 「我は何人をも号泣させなかった」 「我は不潔の行ないをしたことがなく、尚又人と同衾したことがなかった」 「我は我が心臓を食べたことがなかった」 「我は何人も侮辱したことがなかった」 「我は暴力を以て動作したことがなかった」 「我は軽率に判断したことがなかった」 「我は人に復讐したことはなかった。又、我は神に復讐したことはなかった」 「我は我が言葉を過多に増殖したことはなかった」 「我は偽りを以て動作したことはなく、又邪悪を行なったことはなかった」 「我は王に呪詛を発したことはなかった」 「我は水を不潔にさせることがなかった」 「我は我等を驕り高ぶらさせることがなかった」 「我は神を呪いしことがなかった」 「我は不遜を以て動作したことはなかった」 「我は顕達を求めたことはなかった」 「我は正当に我が所有物なるものを以てするのでなければ、我が財産を増加させることがなかった」 「我は我が都にある神を心に侮ることはなかった」 こうした〈否定告白の内容〉を“~するべからず”とすれば命令、“~しないようにすること”とすれば戒めとなります。 「あなたには私のほかに他の神々があってはならない」(出エジプト記 20・3) 「あなたは自分のために、偶像を造ってはならない」(同 4) 「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」(同 5) 「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」(同 7) 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(同 8) 「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたあどんな仕事もしてはならない」(同 10) これらの戒以外は、エジプトの否定告白の中に出て来ていると言えるでしょう。 つまり、〈多神教を信じているから、罪を犯し、悪人となるとは限らない〉ということです。 次に『死者の書』では〈否定ではない告白〉も出てきます。 「我は正義と真理とを食物とす」 我は神々を喜ばすことは勿論、人間の命令を実行した」 「我は神の意志たることを実行し、これによりて神と相和らげさせようとした」 「我は飢えたる人にパンを与え、渇いた人に水を与え、裸なる人に衣服を与え、破船した水夫に舟を与えた」 「我は神々に聖なる供物を捧げ、諸々のクウに墓内の食事を与えた」 「我は口に就いても、また手に就いても潔し」 「我は神々に祈りを捧げた」 「我は正義と真理とを声明し」 「正義と真理との主に対し、正しく且つ真実なることを行なった」 (『死者の書』 第一二五章より) これらは善行について述べたものと言えるでしょう。 こうした戒めを守り、善行を行なった結果は極楽とされます。 「極楽のことを霊界ではセケトヘテペト、つまり『平和の野』と呼んでいる」(『死者の書』 第一二章 P200) 「私は自分の心が美しい平和な気分になるのを感じた」 「大河が流れているのが眼に入った(中略)水は清く澄み、明るく平和なラアの光を反射した水面は小さな波を立てながらゆっくりと流れている」 (同 P204) 「極楽に行くと必ずこのように生前の家族でそこにいる者に迎えられるのだ」(同 P205) 「私の眼前に美しい湖水の風景が開けた。湖岸には砂が敷き詰められていたが、その砂はただの砂ではなかった。緑や金色など美しい彩りの宝石とまごうばかりの美しい砂だった」(同 P205―P206) 「湖岸はオリーブの樹木でいっぱいでそれがみな美しい実をつけているのだった」 「空にはそよ風が渡っていたが、その風にさえ美しい香りがしているようだった」 「そこは大麦、小麦の麦畑だった。麦畑では刈り入れが行なわれていた」(同 P206) 「人の現世にてなす如く全てのことをなす」 「極楽には碁将棋のような娯楽だってある」 「男女の霊が愛を結ぶことだってあるという」(同 P208) 「ケンケンが神酒に最初の一口をつけた後は参列する霊たちにもご馳走がふるまわれる。神酒も霊たちに配られる」(同 P210) 「極楽では農作物も地上の霊界よりよく育つので労働はいたって軽い」(同 P213) 「ここには、将棋も音楽も、ゲームも本も、その他もろもろ現世と同じ楽しみがあるんですよ。おかげで退屈しませんよ」 「極楽には苦しいことはない。だから現世よりはるかに素晴らしい」 「まことに現世に似ているのが極楽なのだ」(同 P214) 〈極楽とは、現世よりも、苦しいことはなく、素晴らしい世界だが、現世と同じような楽しみがある、現世によく似ている世界〉ということです。 「極楽の永住を許される霊はそう多くはない。ましてや一族が揃って許されるとなればさらに稀になる」 (同 P212) 〈許されない限りは、現世で愛し合っていた家族であっても、一緒には住めない〉ということで、その意味では〈完全に幸せな世界〉とは言えないかも知れません。 〈食べ、飲み、地上よりは軽いが働き、娯楽をする〉というのが極楽の住人の在り方だということです。 「ヰ゛ーザレシャと称する悪魔は罪に生ける不義なるダエ゛ワ崇拝者の霊魂を縛りて運び去らん」 「アフラ=マズダに造られたる神聖なるチンワ゛ット橋の袂において、彼等はその精神と霊魂との為に、此の世に在って行ないたる善き行ないの報酬を求めるなり」(『アヴェスター』 エ゛ンヂダード 第一九章 五・二九) 「此処に於いて美しくて、形善き健やかにして姿よく、善く判別し、多くの子あり、幸福にして理性ある少女は、左右に犬を従いて来たらん」 彼女は、義者の霊魂をハラ=ベレザイチに登り行かせる。チンワ゛ットの橋より登らせてその霊魂を天上の神々の前に置かん」(同 三〇) 「ヲフ=マノーは黄金の座より起ち上がりて呼びて曰く『ああ汝神聖なる者よ、汝は如何にしてかの朽ち果てる世界より、朽ちざる世界に、吾等の許に来たりしや』と」(同 三一) 「義者の霊魂は歓びてアフラ=マズダの黄金の座に、アメシャ=スペンタスの黄金の座に、ガロー=ヌマーネムに進み行かん。これアフラ=マズダの坐します所、アメシャ=スペンタ達の坐す所、その他神聖なる者の坐す所なり」(同 三二) 「不義にして、悪を行なうダエワ゛等は、かの清められたる神聖な人の、死後の霊魂の香気にふるえ恐れること、恰も狼が羊に向かって言うが如きなり」(同 三三) 「義者の霊魂は此処に集まれり。ナイリョー=サンガは彼等と共にあり。アフラ=マズダの使者はすなわちナイリョー=サンガなり」(同 三四) 「神聖なる者等の輝きて幸福多き極楽」(同 三六) 「彼極楽に入る時は、星も、月も、日も、彼を歓迎して言わん。 『ああ人よ、汝を祝す。滅ぶる世界より、滅びざる世界に今しも来たりし汝を祝す』と」(同 エ゛ンヂダード 第七章 八・五二) 「爾の歌の家にて、親しく爾の顔を見て、爾に供物を捧げる聖き徒の讃美を聴くことを得ん」(同 ヤスナ 一五・四) 義者はアフラ=マズダの住居のある所、極楽へとチンワ゛ットの橋を渡り至るとされています。 「イマの治めた世には、寒さも暑さも激しきことなく、老いなく死なく、悪魔の造りし嫉妬なるものも有らざる。宛も十五歳のものの如く、子と父とは同じ丈と同じ形とにて二人は相歩めり」(同 ヤスナ 二六・五) 「彼の治世には食物を要する動物には養いの欠けることなく、羊も人間も死することなく、水も草木も枯れることあらざりき」(同 ザミヤード=ヤシト 七・三二) 「彼の治世にて、彼が未だ偽ることなく、未だ偽りと真理ならざることを好まざるまでは、寒き風なく熱き風なく、老いなく死なく、又はダエワ゛の造る嫉妬なるものもあらざりき」(同 三三) 〈イマの治めた世には、激しい寒さも暑さも、老いも死もなかった〉とされます。 「大戦争の戦われんとする時(中略)今や正しき復讐がこれ等の悪の徒の上に来たらん」 「虚偽の悪魔を正義の秩序の両手に引き渡す」(同 ヤスナ 四・八) 「一旦完全の域に達する時は、破壊の打撃は虚偽の悪魔の上に落ち来たり、その信者等は彼女と共に滅び去らん」(同 一〇) 「其の光栄は勝利あるサオシュヤントと、又それを助ける者等に帰すべし。それ、彼が世界を恢復せん時は、是より後は老いることなく、死することなく、枯れることなく腐ることなく、常に生き常に増し、よくその思いの主となりて、死したる者は蘇り、生命と不死との来たらん時は、世界はその思うがままに恢復せらる」(同 ザミヤード=ヤシト 一五・八九) 「創造―すなわち善の霊の栄える創造―が不死となる時は、たといヅルジは神聖なる者等を殺さんとして、あらゆる方に突き進まんとも、彼女は滅ぶべし。彼女とその百倍の眷族は滅ぶべきのみ。是神の意なり」(同 九〇) 「彼は叡智の目を以て、悪の種なるパエーシンの凡ての動物を見下すべし。彼は豊饒の目を以て生ける者の全世界を見下すべく、彼の眺めは生きとし生ける凡てのものを不死ならしめん」(同 一六・九四) 「何等の栄えなき所のアエーシマは跪きて遁れ去らん。彼は悪の種にして闇黒より生まれたる最も不義なるヅルジを破らん」(同 九五) 「アケム=マノーは打ち来ると雖も、ヲ゛フー=マノーは彼を打たん。虚偽の言葉は打ち来ると雖も真理の言葉は彼を打たん・ハウルワ゛ダートとアメレタートとは餓えと渇とを打たん」 「悪を行なうアングラ=マイニュは跪きて遁れ、力なき者とならん」(同 九六) これが《終末の日》、《大戦争》と呼ばれるものです。黙示録の《ハルマゲドン》と同じでしょう。 サオシュヤントは〈生きとし生ける者を老いることもない不死とする〉とされます。 「彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(ヨハネの黙示録 20・9―10) 「一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた」(同 12―14) 「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げこまれた」(同 15) 「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある」(同 21・8) これらは旧約にも述べられています。 「彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる」(エゼキエル書 38・22) 「わたしはマゴグと、島々に安住している者たちとに火を放つ」(同 39・6) 「あなたの死人は生き返り、 私のなきがらはよみがえります。 さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。 あなたの露は光の露。 地は死者の霊は生き返らせます」(イザヤ書 26・19) 「その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに」(ダニエル書 12・1―2) 《最後の大戦争》が《最後の審判》になっています。 中世になると 『ブンダヒシュン』は「世界の終末に彗星が落下して、地球に大火が発生する」、「その大火により、山中の鉱物が熔け、熔鉱が大地の上を川となって流れる」、「すべての人々は、その熔鉱の中を通過しなければならず、またそれにより浄められる」、「この熔鉱を通過する際、悪者はもだえ苦しむが、善者はかえって心地よく感じる。善き人々にとって、それは温かい乳のようである」、「大地を浄化する熔鉱は、最後に蛇の姿をした悪魔を焼き、暗黒界への出口を塞ぐ」(『ゾロアスターの神秘思想』 岡田明憲 著 講談社現代新書 P116―P117より)、「神は、大地から骨を、水から血を、植物から毛を、風から生命を求めて、死者を元通りに組み立てる」、「まず第一に復活するのは、悪魔によりて殺された原人、ついで人類最初の男女、それから五十七年間かけてすべての死者が復活する」、「死者が復活する場所は、彼らが死んだ場所と同じである」、「再会した彼らは、連れ立って総審判の場に臨む。そして、そこで不義者と義者は分離される。親子、兄弟、友人といえども、一方が天国へ、他方が地獄へと」、「三日三晩にわたる天国での至福の時を義者は過ごし、同じ期間、不義者は再び地獄で苦しむ」、「この後、義者も不義者も、熔鉱の浄めをうける」(同 P118―P119より)と述べているそうです。 しかし、「熔鉱の浄めを通して、不義者も結局は救われる」、「新しい世にあっては、すべての人は同一の言語を話し、アフラ・マズダーと天使たちを称賛する。そして、白ハオマと聖牛の脂をまぜた食物をとって不死となる」(同 P119より)と述べているそうです。 〈火による終末の日〉、〈最後の審判〉、〈肉体を持っての復活〉と一致しています。 違いは〈熔鉱の清めにより、不義者も救われる〉となったところです。 もともとは 「凡て不善なるものはヅルジが形を成せるものにして、裁判官を軽蔑する者なり。すべて裁判官を軽蔑する者は君主に対して反逆する者なり、凡て君主に対して反逆する者は不信神の者なり、凡て不信神なる者はその罪死に当たる」(『アヴェスター』 エ゛ンヂダード 第一六章 三・一八) 「虚偽の家は永久に彼等の住家たるべし」(同 ヤスナ 一一。一一) とあるように、〈不善なる者は永久に虚偽の家の住人〉というものでした。 「下なる世界に在って、その行ないに対する苦痛は、此の世界に於けるが如く厳しくして、真鍮の刃を以て、彼の肉体より手足を切り離す如きか、又は尚一層に甚だしかるべし」(同 エ゛ンヂダード 第四章 四・五〇) 「真鍮の釘を、彼の肉体に打ち込む如きか、又は尚一層に甚だしかるべし」(同 五一) 「人間の丈を百倍したる断崖の上より、力を以て投げ落されるが如きか、又は尚一層に甚だしかるべし」(同 五二) 「力を以て彼の肉体に杙を刺し込む如きか、又は尚一層に甚だしかるべし」(同 五三) こうした地獄に到る罪とされるものには独特のものもあります。 「我に対抗して、償うべからざる罪たる、死者の埋葬なるものを造れり」(同 第一章 一三) 「かの土地を耕す信神なる者に、深切に、敬虔に与えざる者は、(中略)地獄の世界に投げ落さん、無間地獄に投げ落とさん」(同 第三章 三五) 「死人の身に、或いは衣服、或いは少女が糸つむぐ時に落とす程のものたりとも、之をまとわす者は、生ける間は決して信神なる者とは謂うべからず。死後も決して極楽に到ることあたわざる」(同 第五章 八・六一) 「汚物と共に屍骸を、水又は火に入れて其れを不浄ならしめた者」(同 第七章 四・二五) 「人若し故意に自然ならざる罪を犯す時」 「永久に永久に償い得ざる犯罪なり」(同 第八章 五・二七) 「若し其の犯罪者にしてマズダの教えの教師なるか、又は其の教えを教えられし者たる時」(同 二八) 「火にてナスが焼かれ又は料理され居る時」(同 八・七三) 「そのナスを料理する人を殺すべし」(同 七四) 「マズダの法則に従える浄めの儀式を知らずして、不浄を浄めんとする者ある時」(同 第九章 三・四七) 「此の背に針の如き毛ありて、長き薄き口尖ある犬、すなわちワ゛ンガーバラの犬、悪口する者ツ゛ザカと言う犬を殺す者は(中略)生前に其の罪を償わざる時は、チンワ゛ットの橋を渡ることあたわざる」(同 第一三章 一・三) 「牧羊犬、又は家犬、又はヲ゛フナズガの犬、又は訓練されたる犬を打つ者」(同 二・八) このような独特の罪があり、〈死者に衣服をまとわせないこと〉、〈埋葬しないこと〉は他の宗教とは異なるところで、対立する場合もあります。 火は神聖なものとされ、死体を焼いてはならないとされますので、火葬も、後に異端者等をキリスト教にて火刑にしましたが、それも罪とされることになります。 他にユダヤ教・キリスト教と共通する罪もあります。 「犬又は人間の屍骸を食いし者」(同 第七章 四・二三) 「男子が女性と寝、女子が男子と寝る如く、男子にして男子と寝る者は、是ダエワ゛の人なり。此の者はダエワ゛の崇拝者なり」(同 第八章 五・三二) ユダヤ教・キリスト教と最も異なる部分があります。 「ここに我が造りし者たるヲ゛フ=マノーあり」 「ここに我が造りし者たるアシャ=ワ゛ヒシタあり」 「ここに我が造りし者たるクシャトラ=ワ゛イリャあり」 「ここに我が造りし者たるスペンタ=アールマイチあり」 「ここにハウルワ゛タートとアメレタートあり」(同 オルマズド=ヤシト 二五) 「我は信者の為にハウルワ゛タートの援助と、喜悦と、慰めと、快楽とを造りて、それらを、アメシャ=スペンタ達の一つとして汝に来る所の彼に結び合わせたり。そは彼はヲ゛フ=マノー、アシャ=ワ゛ヒシタ、クシャトラ=ワ゛イリャ、スペンタ=アールマイチ、ハウル=ワ゛タート及びアメレタート等のアメシャ=スペンタ達の何れにも来るべきであるから」(同 コルタード=ヤシト 一) 「ああスピタマ=ザラツシュトラよ、此の我が泉たり、いや広まり、又健康を与えるアルヅヰ゛=スーラ=アナーヒタに供物を捧げよ」(同 アーバン=ヤシト 一) 「ああスピタマよ、真に我が広き牧場の君たるミトラを造るや、我は彼を供物を受けるに値し、又我マズダに対する如く、祈祷を受けるに価するものとして造れり」(同 ミヒル=ヤシト) 「我は、善良にして、強き、恵みある信者の精霊を讃美し、之を呼び求め、之を念じ、我らは之に供物を捧ぐ」(同 ファルワ゛ルヂーン=ヤシト 二・二一) 「アフラに造られたエ゛レトラグナに供物を捧げ」(同 バーラーム=ヤシト 四八) 「アリヤ民族をして彼に灌禮を捧げしめよ、アリヤ民族をして彼に対してバレスマの束を捧げしめよ」(同 五〇) 唯一神のみを信仰するユダヤ教と異なり、ザラツシュトラの教えを信仰していた者たちは、マズダ信仰から、神々であるアメシャ=スプンタ、そして、ミトラ、アナヒータ女神 ヤザタ、義者の精霊たち フラワシをも信仰し、供物を捧げるようになりました。 このうち《ミトラ》はキリスト教における《子なる神》、《アメシャ=スプンタ》は《七大天使》に相当します。 〈アメシャ=スプンタはアフラ=マズダの分神〉と言えます。 こうして、《マズダ教》は《ゾロアスター教》へと変化していきます。 「彼等は凡て七體にしてその思想は一つなり。彼等は凡て七體にしてその言葉は一つなり。彼等は凡て七體にしてその行ないは一つなり。彼等の思想も同じく、彼等の言葉も同じく、彼等の行為も同じく、彼等の父も命令者も亦同じく、創造者アフラ=マズダなり」(同 ファルワ゛ルヂーン=ヤシト 二三・八三) 〈アメシャ=スプンタは七体あっても、その思想・言葉・行為は一つであり、それはアフラ・マズダによる〉というのです。 つまりは、唯、アフラ=マズダの思想・言葉・行為を行なっているということです。 ゾロアスター教でのアフラ=マズダの啓示はどのようなものだったのでしょう。 「ゾロアスターよ、生みの親はわれなり。天則の父にして養い親はわれなり。 太陽と星辰の軌道を創りし者もわれなり。 月の満ち欠けを知りし者もわれなり」(『宗祖ゾロアスター』 前田耕作 著 ちくま新書 第3章 ゾロアスターの生涯 P133より) 「支えもなく落ちない天と地とを分かち守りしはわれなり。水と草木を創りし者はわれなり。足疾き風を創りしもわれなり。さればわれのもとに来たりて、つねに大地に最高の報応たる雨を授けるワフマンとワートに加われ」(同 P133―P134より) 「ゾロアスターよ、世界中の被造物をワフマンを通して創りしはわれなり」 アフラ=マズダは自らが創造主であると語ります。 「三千年間、われ万物を創造せしが残りしものあり、ゾロアスターよ、それは老いと死なり。 この三千年間、飢えも渇きもなく、眠りも目覚めもなく、老いも死もなく、寒風も熱風もなく、わが世は不死であり、正しく存在するものは光り輝いていた」(同 P134より) 〈老いと死、飢え、渇き、寒風と熱風はアフラ=マズダは創造していない〉と語ります。 この〈三千年〉が他の神話で《黄金時代》と呼ばれるもので、聖書における楽園 、《エデンの園》に相当します。
by aramu
| 2014-04-24 00:43
| スピリチュアリズムと宗教
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