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「いつの時代にも、それぞれの時代の特殊な事情に応じて神の啓示が授けられているのです。 そのいずれの啓示にも、中核をなす重大な思想が盛られております。 スピリチュアリズムと呼ばれているものは、それらを一つにまとめた総合的思想なのです。 これまで断片的に啓示されてきたものが集められ、スピリチュアリズムの名のもとに、偏りのない一個の集合体としたのです」 「純粋性および真実性において優るものもあれば劣るものもあります。 が、イエス・キリストの説いた真理がもっとも真実味にあふれ、多分インドの古代宗教がそれに続くでしょう」 (『インペレーターの霊訓』 W・S・モーゼス 著 近藤千雄 訳 潮文社 P43) スピリチュアリズムと他の「宗教」との関係はこれに尽きます。 スピリチュアリズムは、他の「宗教」を全面的に否定するようなことはしません。 他の「宗教」の夾雑物を取り除いて、その「中核にある真理」をまとめあげるのです。 ですから、本当の「宗教」を信じている人にとっては、スピリチュアリズムは決して敵対するものではないわけです。 モリス夫人を通じて語る古代霊パワーは、「一切の宗教の普遍性を説く」、「太陽系の司宰神であるキリストの大神霊は一切の宗教の教師達を通じて現われておられ、イエスでも、マホメットでも、釈迦でも、実はキリストの大神霊の使徒である」(『霊訓』 W・S・モーゼス 著 浅野和三郎 訳 潮文社 収録 「霊界通信の種々相」 P5 参照)と述べ、「スピリチュアリズムの旗の下には仏教徒も、イスラム教徒も、キリスト教徒も、皆安住できる。各宗教の祖は、それぞれの特長のある、スピリチュアリズムの綱領中の部分を実行実現しようとしたものである」(同 P7 参照)と述べています。 「スピリチュアリズムの綱領」と言えるものは、「人生の指導原理」であり、「大宇宙・大自然の法則」に基づくものなのです。 「只一つの宗教と云うのは、天地自然の法則そのままを包括する」、「キリストの大神霊は、公平に各宗の祖師達を通じて、その教えを垂れ給う」、「すべてを総合し、すべてを統一した時に、初めてキリストの大神霊の教えの全体が窺われる」(同 P7) 「宗教」を信じるから、信じないからではなく、本当の「宗教」とは「大宇宙・大自然の法則」そのものなのです。 ですから、それに適うか、適わないかによって、それに応じた結果が引き寄せられます。 スピリチュアリズムの「霊界通信」はその結果の例を挙げて報告してくれているものもあります。
宗教の教えは、昔は一霊媒、一霊覚者を通じてもたらされ、また、そうでなくても、一地域においての複数の霊媒によってもたらされました。 宗教の教えは、地上に伝えられる内に、当時の人々の考え、意向、恣意的な捻じ曲げ、地上の人の創作なども加わり、本来のものとは大きく変わることになりました。 それで、霊界において、次の人物が選ばれ、本来あるべき姿に戻そうとし、また、それまでのものより一段進んだものがもたらされました。 そうして、各地域、各時代に応じたものとして、真理の太陽の一光線がもたされてきたのです。 スピリチュアリズムにおいては、霊界における組織的な働きかけにより、特定の宗教団体の教祖ではなく、霊媒的能力を有する人々に教えが伝えられます。 スピリチュアリズムにおいては、ある地域の霊媒、霊的覚者に限定せず、世界中の様々なところに教えがもたらされます。 「地上の宗教」の誤りが指摘されます。 それは、進歩向上した高級指導霊による見解が示されることによってが一つです。 また、地上において、ある「一宗教」を信じた人によって伝えられます。 地上において「ある宗教」を信じ、肉体を失って、他界した後に知ったことが伝えられます。 何を信じていたが、そうでないことがわかった、これを信じていたことが正しかったという形で伝えられます。 一人の霊媒を通じて、一人の魂によって通じて伝えられただけでしたら、その人がたまたまそうなったということも考えられますが、世界各国の霊媒を通じて、複数の魂、霊人を通じて伝えられます。 そこに共通して伝えられた内容があります。 また、そのように伝えられることによって、これまでの「宗教」では理解できなかったものが、理解しやすくなったこともあります。 スピリチュアリズムにおいては、様々な段階にある霊魂からの情報がもたらされています。
私は地上界における「宗教」は大きく分けて次のようなものが混ざって存在していると考えます。 (1) 「正教」・「真教」 本来の宗教です。各時代、各地域において、霊覚者や霊媒を通じて高級存在、高級霊によってもたらされた啓示がもとです。 それを信仰し、実践することによって、人格が向上し、魂が磨かれ、社会をより理想的な素晴らしい社会に近付けます。 「分離されたように、見失ったように錯覚された神・仏と再び結び合わせるもの、神・仏とつなぐもの」 「中心となる教え、根本の、大元の教え」 (2) 「偽教」 人造的な教義、迷信。人間が誤って捉えたものや地上的な限られた知識や視点によって構築したものです。 霊界においては無価値となる教えです。 「地上の人間」を中心にして、自分たちにとって都合のよいものを集めたものです。 それを信仰しても、地上的にはそう問題はないように見えますが、魂にとっては停滞をもたらす、進歩を妨げるなどの弊害があります。 それを実践しても、実際には無意味なものが多いです。 主として、「幽界」の「幻想界」、「陶酔境」に滞在する霊魂が、その存続・維持に関係しています。 信仰することが本人の守護霊との連絡・経路を遮り、自我満足の陶酔につながります。 「我」をなくすことを困難にさせ、多くの場合は、自分中心の利益を求めることが主となります。 当人の「我欲」が増大した場合には、「拝んでもらいたい」、「居場所を用意してもらいたい」、「自分たちの権勢を増やしたい」、「支配・隷属化させたい」という「欲望」を持った「宗教霊魂」を引き寄せ、それとつながり、影響を受けることになります。 当人が悪行為や悪想念を持続することがなかった場合には、他界後は、「幻想界」や「陶酔境」で向上のない状態に入ります。 (3) 「邪教」・「悪教」 摂理に反するもの、根本真理に反するものです。 「暗黒界」における神・仏に反逆するかのように善を嫌い、悪を広めようとする「邪霊魂」・「悪霊魂」が関係しています。 霊的感覚を狂わせ、「光」が「闇」に感じられるような、迷妄の中に陥らせます。 時としては、正しい真理、正しい教えのように装いながら、その中に偽りや反真理を混ぜ込んでいきます。 それを信仰することによって、悪感情はますます増幅され、その教義を実践するほど性格が悪くなり、家庭や人間関係は悪化し、病気や事故が多発し、一時的に好転することがあるように見えてもそれが長続きしません。信者が増えるほど社会に害を及ぼし、争いや混乱の種をまき散らします。 最終的には、信者のほとんどが犯罪者のようになります。 自分では「正しいことをしている」、「世の中を救っている」と思いながら、犯罪行為を重ねることになります。 信じるほど不幸になり、社会に悪影響をもたらすというものです。 また、この影響下に入ると、全て教義の操り人形となり、自分の意志、自分の考えというものがなくなります。 「この教えを信じる者は正しいので、何をしてもよい。この教えを疑う者、敵対するものは殺しても罪にならない。死んだ後は楽園へ行く」というようなもので、実際には、「邪霊魂」、「悪霊魂」の奴隷のようにされ、肉体を失った後は「地獄」、「暗黒界」へ行くことになります。 この中の「邪教」については、その「宗教」の結果をみることで明らかとなるでしょう。 「偽教」については、その「宗教」を信仰していた人が死後に自らの信じたものの誤りに気付いて送ってきた霊界通信や高級霊が指摘したものを見ていくことにしましょう。 「正教」については、特に「高等霊界通信」と呼ばれるものの中で高級霊が伝えてくれています。それと過去の聖典で説かれたものと共通するものを見ていくことで発見できるでしょう。
こうして地獄から救われ、そこで得た経験と力を活かして、貢献を果たすことになるのです。 「わたしは、この男が地上に戻され、彼自身は実践しなかったことですが、霊として地上人に慈悲と哀れみを教えるために働くことになると知らされました」 (『スピリットランド』 A・ファーニス 訳 岩大路邦夫 訳 コスモトゥーワン P194 現在絶版) 「都市に群がる人間や霊人たちに働きかけ彼らの心に、わたしがあの遥か下方に位置する暗黒の霊界で見てきたものを認識できるように印象づけるというものでした」 「彼らの感覚は眠っているので、自分の悪行に対する報いが未来には存在するのだ、という恐怖の感覚をわずかに呼び覚ますくらいでしょう。それでも利己的な楽しみだけに溺れている者たちの何人かでも、その道から引き離すことはできるかもしれません」 (同 P306) 「地獄の王国での路程を通して獲得した君の能力の価値を知るように。その力をもって君は大いなる精兵となって日夜、地獄の住人の攻撃から地上人を守るようになるのである」 (同 P355) 「彼らは地上人であっただけではなく、彼らのうちの多くは悪徳に満ちた生活をしてきたので、そのために君も見てきたあの地獄の霊界に落ち込んでいた者たちであった。しかし彼らが深い悔い改めをなし、偉大な償いの仕事を多くなすことにより、また自らの低劣な欲情を完全に支配することで、彼らは光の軍隊の指揮者となったのである」 (同 P360) 悪の中、闇の中で苦しみ、学んだことによって、それは無駄となることなく、その後に活かされることになるということです。 「この闇の都に落ち込んだ者たちの中にも救うことのできる者たちがいるからです。救われた者たちは地上に戻り、恐ろしい悪の報いがあることをラッパを吹くように人々に告げ知らせて、人々を救おうとするでしょう。 それは、神がこれらの子女たち(一度は罪深く反逆の子だったとしても、悔い改めた者たち)を使者として地上に送り、まだ罪深い劣情の中にもがいている者たちを力づけ助けるために戦わせているからです」 (同 P232―P233) 「神は、許されざる者と言われたそんなわれわれに死んでからさえ哀れみをかけてくださったのですから、どんな人々にも希望があるのではありませんか」 「われわれが地獄で見てきた恐怖の世界が永遠に続くというような考えは捨てなければなりません。神は善の神であり、神の慈悲は人間の考える限界をはるかに越えて余りあるものなのです」 (同 P233) だからこそ、次のメッセージが届けられます。 「君たちが学んだように、そう信じているのだが、どんなに魂の修行の期間が長くなるとしても、悪用した魂の力から解放されるのにどんなに多くの時間を必要としようとも、全てのものには誰にも奪うことのできない希望が与えられているのである。 また各自には必ず、最後に覚醒のときが訪れるのである」 「最も低い深みに落ちた者も、やがては上昇するようになるのである」 「全てのものに慈悲と赦しは備えられているし、希望と愛は確保されている」 「不死の魂の精髄は、そのわずか一粒でさえ失われることはないし、完全に消滅したり永遠に悲惨な状態に置かれるようなことはない」 (同 P293―P295) 「希望はどこにでも、それに神は誰もその希望から締め出すようなことはいたしません。人が神の教えからどれほど外れた人生を歩んだとしても、です」 (同 P204) 希望はどこにでもあります。 決して絶望する必要はないのです。 「永遠の地獄」などというものは存在しません。 「地獄」を経験してきた者が語るのです。 「地獄」の苦しみの中にあって変らぬ神の愛と慈悲とがあったと。 反省し、他のものへの悪行のその何倍もの善行によって、不幸にした人々のその何倍もの人々を幸せにする手助けをすることによって、その罪は償われるのです。 救いはどこにでもあるのです。 このようなことを「地獄」を経験した霊たちは伝えてくれています。 しかし、またこうも語ります。 「人間が悔い改めるには、地上にいる間のほうが、死んで霊の世界へ行った後よりははるかに簡単なことなのです」 (同 P369) 地上界にいる間に、反省をし、悪の行為を善の行為に転換していくことです。 残酷な行為ではなく、愛の実践を選択していくことです。 祈りのもとで。 愛と慈悲の神・仏を信じて。
「あるとき、わたしは殺人者が住んでいる最低下層の世界を案内されました。それは人間とは言えないものでした。そこにいる霊たちは気味の悪い姿をして、もはや人間のようには見えません。その世界の大気は非常に密度が濃くてほとんど黒く見えました。そこでわたしはひとつの霊が解放されるのを見ることになったのです。 その霊は、他の何体かの霊とともに泥のような物質の中にはまっているようでした。わたしが『あなたは何をしたの?』と聞くと、それは「殺した。おれは殺人者だった」と答えたのです。その言い方はとてもつらそうでした。そのとき救助隊の一人がその霊に触れたかと思うと、その霊はたちまち泥から抜けて舞い上がり、救助隊員はその手をとってともに高次の世界へと上昇していきました」 (『あの世の存在《いのち》に活かされる生き方』 パット・クビス & マーク・メイシー 著 富山詩曜 & 臼杵真理子 訳 徳間書店 P146―P147 現在絶版) 「わたしたちは、否定的な習慣にわが身をおぼれさせることによって地獄へ落ちるのです。しかし地獄は永遠の場所ではありません。そのすぐ先――ときには何年か先――には、慈愛と哀れみに満ちた魂が待っていて、救助の手を差し伸べたがっているのです。アストラル界のこの最下層においてさえ、絶望的な孤立状態に身を置く魂はひとつもないのです」 (同 P149) 「比較的長期間――往々にして地上の年月にして何千年何万年にも亘って頑固に抵抗し続ける者がいないでもない。が、いかなる人間も永遠にその状態を続けうる者はいない。そこに父なる創造神が子らの内と外に設けた限界があり、一人として神より見離され永遠に戻れぬ羽目に陥らないようにとの慈悲があるのである」 (『ベールの彼方の生活(二)』 G・V・オーエン 著 近藤千雄 訳 潮文社 P34―P35) 「彼は自分で自分の周囲に地獄そのものをつくり出し、その中で地上で得た性格の欠陥をやきつくすのであって、こうしてより一層高い心の状態へと絶えず進歩して行くことが出来るのである。そうして終に光の使者たる高級霊達がその奈落の底に訪れて来て光を与え、彼が新しい意識の境涯へ進歩して行くように霊感づけるのである」 「彼自身が自分の意識の創造者であり、そして自分でつくった意識の世界の中にその意識が変るまで彼は生活しなければならないからである。 しかしながら、如何なる人も希望があり、済度し難い者は一人もいないのである。彼自身の努力によって、彼はいつかは自分の意識を建て直し、自分自身の心をより高い霊の光に波長を合わせて、次第に苦悩からまぬかれて行くのである。『神』が自ら助く者を真に助けるのはこういう方法によってである」 (『天と地とを結ぶ電話』 J・クレンショー 著 谷口清超 訳 日本教文社 P159 現在品切れ 現代の仮名遣い ・漢字表記・表現に改めました) 人によっては「地獄」での経験をする者もありますが、いつでも救い・向上への道は開かれているということです。 当人には「永遠」と感じられるかもしれませんが、その苦しみには必ず終りがあるということです。 「地獄」とは「一時的なもの」に過ぎず、「永遠の地獄」ではないということです。 ですから、宗教の教えの中で、「永遠の地獄」、「永遠の刑罰」を説くようなものがあっても、そのようなものは信じる必要はありません。恐れる必要はありません。 しかし、「地獄」に落ちる人がいたとしたら、自分が「地獄」に落ちたことに気付いたとしたらどうすればよいのか。 スピリチュアリズムによって、はじめて、「地獄からの救い」とは何であるかが明らかに伝えられることになったのです。 「そんな生活から何とか抜け出したいと願って、最後にはお祈りなんぞもしようと思ったほどで。 もしも神さまが許してくださって、もう一度チャンスをくださるというのなら何でもして見せますって思いでして」 (『スピリットランド』 A・ファーニス 訳 岩大路邦夫 訳 コスモトゥーワン P213 現在絶版) 「悔い改めと償いの思いが彼らの心に生じ、救済者たちが彼らの救いに向かい、彼ら自身で作った牢獄から彼らを解放するまでそこから解放されることがなかったのである」 (同 P223) 「わたしは、涙もかれはてて、立ち上がる力もすっかり失い、ひたすら“神のみ手”にすがるため祈念していたのだった」 (『われらの住み家』 フランシスコ・シァンディド・シャビエル 著 重栖度哉 訳 日伯心霊協会 P14 現在絶版) 「わたしは幼な児がするように、ひざまずいて両手を組み、いったい、どれほど祈りつづけただろうか。 ≪神よ、この哀れなわたしに、救いのみ手を差しのべてくださるように‥‥≫」 (同 P14―P15) 「ああ、人間とは、祈りの不思議な功徳を知るまでに、なんと多くの労苦を受けなければならないのか。希望というたぐいまれな生命への特効薬をうまく飲みほすためには、良心の責め苦、謙そん、そして不幸のドン底がなんであるかを知らなければならない。しかし、なんとその道程の厳しく険しいことか」 (同 P15) 霊的暗黒のどん底の世界であっても、祈りによって、本人に正しいもの、光を求める気持ちが生まれて来たときに救いへの道は開かれるのです。 本人が、自分の罪を自覚し、それに向き合い、「悪人」、「罪人」との認識のもとに心から「悪から離れたい」、「光に近づきたい」と願い、すがるときに、救いへの第一歩がもたらされるのです。 自らを「悪人」と自覚して、自分を空しくして、無量の仏にすがりつけば救われるとはこのことです。 「神よ、仏よ、罪深い私を、救われ難い私をお救いください」と祈るときに救いへの第一歩が始まるのです。 「彼ら自身の残酷さによって犠牲者の恨みと怒りの炎はさらに煽《あお》られているのである」 「この火によって、己自身の苦痛を通して、彼らはかつて自分たちの犯した悪行の犠牲者の苦痛がいかなるものかを理解できるのであり、そうなってこそ彼らに援助と向上への手段が差し向けられるのである。 しかし、その向上のためには、かつて彼らが犯した無慈悲な行為の大きさと数に匹敵する多くの慈悲深い行為が要求されるのである」 (『スピリットランド』 P189) 「魂はいかにも頑《かたく》なで残酷であるがゆえに、自らの苦痛を通してでなければ相手の苦痛を理解できないのである」 「残酷な正義の法則と思えるものも実は、形を変えた慈悲深い施しであることを知るであろう」 (同 P190) 罪が重いほど必要とされるその苦しみは大きくなりますが、その罪は苦しみを味わうだけではすまなくなります。 無慈悲な行為を行った者はそれだけの慈悲深い行為が要求されることになるのです。 「もし小さなあたたかさのほんの一滴でもあれば、たちまち氷は溶け出し、この哀れな霊たちに希望が見えてくる」 (同 P106) 「もし彼の心に一片の後悔の念や他人に対する思いやりの心でもあれば、それが彼を助け、この復讐に燃えた霊たちと自分との間に壁を作ることになります」 (同 P193) 「彼らは、他人の苦痛を見て喜び、人々を野獣の餌食《えじき》にして、その苦しむ姿を見ては歓喜し興奮していた者たちであった。彼らは残酷な興奮を得るだけのために思いつく限りの方法で人々を拷問し罠にかけて殺害したのである。 そんな彼らを解放するには、彼らが哀れみと同情なるものを学び、己が犠牲になったとしても他人を苦痛から救い出したいという思いになるまではあり得ないのである。そうしてこそ、これらのくびきや足枷《かせ》をはずすことができる。そして自由になった後は、自らの罪の償いの業に励まねばならない」 (同 P225) ブッダは説かれました。「自分にとって快くないならば悪いことを他の者に対してしないように。それを行えば苦しみを味わう。他人を害しないようにしなさい。慈しみを持ちなさい。憐れみを持ちなさい」と。 必要なのは温かい心、思いやりの心、憐れみの心なのです。 それがあるならばこの深い「地獄」からも解放されるのです。 「罪悪に伴う悔恨と自責の念の中でも最も強烈なものは、罪を働いた相手から自分に向けられる愛を自覚した時に湧き出るものである。 これぞ地獄の炎であり、それ以外の何ものでもない」 「神の業が愛の行為にあらざるものは無いと悟って悔恨した時こそ罪を犯した者に地獄の苦しみがふりかかり、それまでの苦しみは本格的なものでなかったことを知るのである」 (『ベールの彼方の生活(二)』 G・V・オーエン 著 近藤千雄 訳 潮文社 P30) 「そのうちその境涯での苦しみをとことん味わってうんざりしはじめ、どこかもう少しましなところでましな人間とともに暮せないものかと思いはじめた時、その鈍感となっている脳裏にも油然として記憶が甦り、その時こそ良心の呵責《かしゃく》を本格的に味わうことになる」 (同 P213) 「殺害者たちの目には、亡霊が生きてそこに出没するように見えるのですが、その亡霊の生命はただ反映されたもので、殺害者が良心の呵責《かしゃく》を感じ、十分に悔い改めれば、両者を繋いでいた連結が断ち切られ、亡霊はたちまち消滅していくのです」 (『スピリットランド』 P108) 次には、良心の呵責を感じるようになります。それまでの自分の悪への想念によって創り出していた苦しみではなく、良心の目覚めからもたらされる苦しみです。 中には、これを感じないですむ者もいるかもしれません。それでも、それがないわけではなく、この「地獄」を抜け出した後に、それを経験することになるのです。 「少なくとも個々の人間においては、抵抗力を使い果たした時に悪の要素が取り除かれ、あとは栄光より更に大いなる栄光へと進む輝かしき先輩霊のあとに続くに任せることになろう」 (『ベールの彼方の生活』 P35) 「より高級で善なるものに対する憧憬および悪から遠ざかりたいと願う心のあり方が彼らを邪悪な業の前で弱くしたのである」 「彼らはこの弱さのゆえに無慈悲な暴力でもって敵を打ち破り傷つけることをためらい躊躇したのである」 「その結果、彼らは打ち倒され、負かされて邪悪な権力から失墜したのだが、そのことでより高次の世界へのドアが開かれることになったのである」 (『スピリットランド』 P289) 悪の要素が軽減し、善の要素が多くなるにつれ、「地獄」における力は弱くなります。これまで他の者を威圧し、他の者を痛めつけ、苦しめていたものであっても、逆により大きな悪の要素を持つ者に痛めつけられ、苦しめられることになるのです。 そして、その苦しみの中で、救いの手を受ける用意が整えられることになります。 「途中で道を見失って何度も谷に戻ってきてしまう者が大ぜいいます。いつ脱出できるかは要は各自の視覚の程度の問題であり、それはさらに改悛《かいしゅん》の情の深さの問題であり、より高い生活を求める意志の問題です」 (『ベールの彼方の生活(二)』 P207) 「犯した罪のいくつかを語って聞かせた。彼は必ずしもそのすべてを潔《いさぎよ》く認めなかったが、いよいよ別れぎわになって、そのうちの二つの罪をその通りだと言って認めた。これは大きな収穫でした」 (同 P215) 「私は彼が自分でも気づかないうちに霊格が向上しつつあることを知った。極悪非道の罪業のために本来の霊格が抑えられていたのが、何かをきっかけに突如として魂の牢獄の門が開かれ、自由と神の陽光を求めて突進しはじめるということは時としてあるものです」 (同 P248) 悪の要素、罪がそれだけ少なければ、向上への目覚めもそれだけ早くなります。 救済まで至らなくても、神の使者の言葉を聞くことによって、神の使者の言う行いを実践することによって、より目覚めるということがあります。 「自分の卑劣さをよくわかっていて、また彼の周りにいる者たちの醜悪さもわかっているようでした。 この男の心には、自分自身では希望を感じていませんが、よりましなものを認める願いがふつふつと湧《わ》き上っているのを見ることができました。何か、それがどんなに辛《つら》く茨《いばら》に満ちた道であっても、彼をこの地獄の暗闇から導き出し、この窮地にあってもこの恐怖の場所とこの連中から解放される希望を与えてくれる、そんな道を探しているのでした」 (『スピリットランド』 P181) まるで、暗示にかかっているかのように、心の状態の通りに醜い姿となった自分を以前の自分の姿のままに思っています。しかし、善性が目覚めるにつれて、自分の醜い姿が見え始め、それまで通常と思っていた環境も醜悪なものであることに気付きます。それで、その世界への嫌悪が増していくのです。 「そんなにうれしかったのなら、どうです、今度は自分が他の人々を助けてあげてうれしくさせてやりませんか? やり方を教えますよ?」 「へッそりゃもう喜んで、連れてってくださるんなら」 (同 P212) 「救い出した者たちに対して、今度は彼らがこの暗黒の地で救いを求める者たちを助けるようにとアドバイスをして」 (同 P219) 「この男の霊が新しい感情、悔い改めの思いに目覚めだしたことを見ることができました。彼はイエスズ会の会員たちに警告するため町へ戻り、自分と同じ過ちを犯しつつある彼らを導こうとしました」 「最初はこの暗い場所で働かねばなりません。まず彼の罪業の共犯者の魂を解放するためです」 (同 P194) 自分が助けられたならば、次には同じような苦しみを味わっている他の人たちを、自分がしてもらったように助けるのです。 「今、こうして後悔している男に対して、どうすれば自分の悪行を償うことができるかを教えてあげたのです。今彼は、あれほど愛しかつ憎んだあの女が来るのを待っています。彼女に会って先ず彼女に赦《ゆる》してもらい、また彼女を赦すためにです」 (『スピリットランド』 P277) この「地獄からの救いの道程」は他の「宗教」では欠落、または誤解されている部分でしょう。 「自己犠牲と愛のみが罪を贖《あがな》い、神の御心へと近づかしめるのです。これこそ真実の贖罪《しょくざい》なのです」 「霊的本性を高め、魂を浄化する行為の中で償い」 (『モーゼスの「霊訓」(上)』 W・S・モーゼス 著 近藤千雄 訳 コスモ・テン・パブリケーション P169 現在絶版) 「地獄――それは個々人の魂の中を除いて、他のいずこにも存在しません。いまだ浄化も抑制もされない情欲と苦痛に悶《もだ》え、過ぎし日の悪行の報いとして容赦なく湧き出る魂にさいなまれる――これぞ地獄です。その地獄から抜け出る道はただ一つ――たどってきた道を後戻りして、神についての正しい知識を求め、隣人への愛の心を培《つちか》う以外にはありません」 (同 P185) 「悪と知りつつ犯した故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならない」 「過ちを犯した魂が、それがいかに遠い昔のことであろうと、その自分の過ちゆえに生じた縺《もつ》れを、必ずみずからの手で解《ほど》かねばならない」 (『モーゼスの霊訓(中)』 W・S・モーゼス 著 近藤千雄 訳 コスモ・テン・パブリケーション P83 現在絶版) これと同じなのです。 自らを振り返り、反省し、苦しみを耐え、自己犠牲と愛を実践することです。 そして、もう一つ、イエスは説かれました。「赦しなさい。天の父である神があなたを赦してくださるように、あなたも他の人を七の七十倍も赦しなさい」と。 地上界でこのことを知り、実践していたならば、「地獄」には墜ちなかったでしょうし、もし、墜ちたとしても、短い期間で済んだことでしょう。 しかし、「地獄」に墜ちた人たちであっても、生命を絶たれるようなことはありません。 それは、「地獄」に墜ちるような罪深い人たちであっても、神性がすっかり消え去るようなことがないからです。 「暗黒界でも相当強力な勢力をもつ霊の一人だということです。でもあのシーンからも想像できますように、良いこともするのです」 (『ベールの彼方の生活(一)』 G・V・オーエン 著 近藤千雄 訳 潮文社 P56―P57) 「あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております」 (同 P57) 「ご覧になったように、男の嘆願が彼の柔らかい琴線に少し触れると、気持が変らないうちにと男を放してやり、道まで教えてやりました」 「もし完全な悪のかたまりであれば私たちのいる光明界へ来ようなどという心は起きないでしょう」 (同 P58) 「“暗黒界の天使”が大勢いるということです。その人たちは魂の本性に何か歪んだもの、善なるものへの志向を妨げる強情なところがあるために、今のところは暗黒界にいる。が、そのうちいつか、長い長い生命の旅路において、もしかしたら今のところ彼らより祝福されている私たちを追い越し、神の王国において高い地位を占めることになるかも知れないのです」 (同 P58―P59) 「実際はその奥には霊的な高貴さが埋もれているのです。つまり善の道に使えば偉大な力となったはずのものがマヒしたために、今では悪のために使用されているにすぎない。彼は足をすべらせた大天使なのです。それを悪魔と呼んでいるにすぎないのです」 (『ベールの彼方の生活(三)』 G・V・オーエン 著 近藤千雄 訳 潮文社 P254) 「彼の歪《ゆが》んだ顔には何かしら善良そうなものも認められたのです」 (『スピリットランド P211) 「自分たちの罪悪の掃《は》き溜《だ》めに這《は》いつくばう全ての不幸な者たちにも、消滅することも破壊されることもない人間の魂の胚珠《はいしゅ》が存在している」 (同 P293) ですから、最下層の大悪人であるとしても、その人全体を低く見る、その全存在を否定するような見方はしないようにしましょう。 「地獄」から抜け出すこと、救いはその人だけによってもたらされるわけではありません。 愛する人達の思いは暗黒界層にいる人に対して変わることがないのです。 「わたしは、実はもっと高い階層にいてあなたを愛しつづけている人たちの懇請を受けて、あなたのところによってきたのです。あなたの苦しみはその人たちの心に通っているのです」 (『われらの住み家』 P26) 「お母さんは、その時も決して失望落胆はされなかった。“われらの住み家”を訪れては、幾度となく君のために援助を頼んでおられたのだ」 (同 P40) 「お父さんの霊波がまだ低いので、わたしに気づかないのです。霊気を吹き込んで善の道へ呼び戻そうと努めるのですが」 (同 P84) 「父は何とわたしが地上と霊界を放浪している間、わたしを守り、あがいているときには慰めてくれていたのです。そうした父のことは全く見えませんでした。ずっとそばにいてくれて絶えず愛を注いでくれたのです。わたしが会いたくないなどとしり込みしていたあのときにも彼はそこにいたのです」 (『スピリットランド』 P145) 「はるか彼方の明るい世界では可哀想な妻が悲しみのなかにも、何とかして彼女の変わらざる愛と祈りとが、この恐ろしい場所にまで届き夫の魂に触れるよう、そして彼の気持ちがやわらいで悲しくも恐ろしい目的を悔いて、復讐を諦《あきら》めてくれるようにと必死に願い努力していました」 (同 P203) そして、地上界から変ることなく、守護・指導する霊人たちは暗黒の中に落ちた魂たちを見守り、決して見捨てることがないのです。 「はっきり見えないとはいえ、彼の存在とその援助は、しばしば感じることができました」 「霊界に初めて入ってきたとき、自分のあまりにひどい状況に圧倒されそうになりながら、もがいているわたしに警告を与えたり慰めてくれたりした、あの声は彼からのものでした」 (同 P115) 地上界の人からの祈りも大きな力となります。 「あなたの心がかくも愛と慈悲《じひ》に満ちていらっしゃるならば、少しばかり、このわたしにも取っておいてくださいませ。この自分は全く惨めで、あなたの祈りを必要としています。このわたしもまた助けられるようお祈りしてください。そうすれば、わたしの祈りは聞かれそうにありませんが、あなたの祈りが聞かれて、自分も神様に赦《ゆる》されるかもしれないと希望を持つことができますから」 (同 P97)
「われわれは、自分たちの知る最も低い階層を暗黒界と名付けている。人間を人生の旅人と考えてみたまえ。旅の根本目的から目を離さず、しっかりとした足どりで進むものはきわめて少ない。彼らは自分の中の神性を認めて、高貴な目的にひたすら邁進する高潔な精霊である。ところが、精霊の大半はいつも同じ過ちを繰り返して、これまでの長い世紀をずっと足ぶみしているのだ。前者は直線コースで進み、後者は大きなカーブを描いて進んでいる。だから後者は、出直しの苦労を重ねて、気まぐれないくつもの運命にあやつられているようなものだ。人生の森のまん中でよく自分の行く方を見失い、はい出ようとして自分でつくる迷路に踏み込んでいくものが多いのだ。幽界をさ迷っている大ぜいのものがこのクラスに属する。他は、“エゴ”に執着するがために、暗黒を好み、深淵に落ちて、その汚濁のなかでいつまでもうめき苦しむのだ」 (『われらの住み家』 フランシスコ・シァンディド・シャビエル 著 重栖度哉 訳 日伯心霊協会 P253 現在絶版) 「ここにいる僕たちもそうだったが、君は下級階層のことを忘れて、地球上方に伸びている地域のみを、死後の生物が住む世界だと考えていたのだろう」 「罪を負った魂が、生命というすばらしい湖の表面に浮かびあがりえないことはいうまでもない。つまり、束縛から解放された小鳥が高くかけるのを思い浮かべてごらん。やぶに落ち込んだ鳥は翼の不自由を感じ、大きな重しに縛られた鳥は、えたいのしれないその重しの奴隷にすぎないようなものだ」(同 P255) 「暗やみでのみ生きることの好きなものは、方向についての神的感覚をにぶらせる。こんな人が暗黒界に落ちていくのは、なにも不思議ではない。だれでも自分の決めたコースのところへ自然にいき着くのだよ」 (同 P256) 「しかしながら、すべての世界が美しくて豊かなわけではありません。ごくわずかですが、アストラル界中層までたどり着くことができない人たちもいます。このような人々は、しばらくの間、暗くてじめじめしたアストラル界下層にとらわれてしまいます。これが、西洋で考えられている地獄や煉獄という概念のもととなった世界です」 (『あの世の存在《いのち》に活かされる生き方』 パット・クビス & マーク・メイシー 著 富山詩曜 & 臼杵真理子 訳 徳間書店 P106 現在絶版) 「低次のアストラル界は暗く、陰惨な世界です。一部の人々は死後、自分が持つ低波動の思考や行動によってこの世界に引き寄せられます。この領域は物理的世界の近くに存在し、混沌としています。霊界には時間も空間も、引力もなく、この低次の世界に陥った存在たちは、混乱した状態の中で生きることになります。そしてときには、地球の時間で言えば数年から数世紀もの間、この困惑に満ちた現実のなかで暮らすのです。なかには自分が死んだことに気づいていない者さえいます」 「アストラル界下層にいる霊たちの多くは、地球上の種々の問題を引き起こす原因となります。彼らはテレパシーで地球上の人間と交信でき、心の弱い人たちが悪い行いをするようにささやくのです。その人たちはそれが自分自身の思考だと思い込んでしまいます。たとえば、死んだアルコール中毒患者、麻薬常用者、殺人者、またその他の凶悪犯罪人の霊は、地球上の自分と似たような性質を持った人間や意志の弱い人間に引き寄せられ、かつて自分たちが働いてきた悪事へと誘い込もうとします。このような否定的な心的存在たちは、とりついた人間の否定的な思考や態度、行動を煽《あお》り立てます」 (同 P110) 「低級な生命の生存する領域の上には、深淵のように暗い地獄のような地帯と、恐怖と錯綜と苦悩に満ちた煉獄地帯とがあり、そこには地上界から『地獄に墜ちた霊魂たち』がすんでいるのである――彼らは未だ自分自身の本質を発見しないために墜ちた(神性を見失った)のである。幽界の環境は心の動きに直ちに反応するのであって、或る意味では地上世界よりも一層心的世界である。それを理解すれば、これらの人々が何故暗黒の世界や悩みや絶望の陰欝なる霧の中にいるかがわかる筈である」 (『天と地とを結ぶ電話』 J・クレンショー 著 谷口清超 訳 日本教文社 P59 現在品切れ 現代の仮名遣い ・漢字表記・表現に改めました) 「この秩序が乱れて波動が混乱したり歪められたりすると、それに応じて暗黒世界があらわれて来るのである。これらの低い幽界の地域にいる人々は――これらの地域は都合のよいことに『意識状態』と呼ばれているのであるが――実際に彼らの心の状態によって、自ら地獄や煉獄の環境をつくっているのであり、しかもその心の状態は彼らが肉体から離脱した時持って来たそのままの心の状態なのである」 「死後の世界では、肉体を去った人間は地上で望んでいたものを得ると同時に、彼がそれを受けるにふさわしいものをうけとるのである。若し彼がたえず憎らしい人のことばかりをのろっているような下等な知性と堕落した品性の持主であるならば、彼は間違いなく彼のその想念に適した『暗黒界』に墜ちるのである。彼が若し今迄の物質世界によって死後の世界は光も生命もないと強く信じている場合には、彼は完全に暗黒界に墜ちる他はないのである。よく物語に出て来るように、全く文字通り、何十億という『地獄に墜ちた霊魂たち』がいて自己の憎しみや色欲でお互いに争い合い、まぎれもなく、悪魔の地獄をつくり出している――或は地獄絵巻をくりひろげている――のであって、彼らはその状態が本来の彼らの姿ではないということに幾分目覚めるまではそこから逃れることも出来ないし、逃れようと欲することすらしないのである」 (同 P60 現代の仮名遣い ・漢字表記・表現に改めました) 「低い幽界に住んでいるこれらの哀れな『罪人達』は、神によって罰せられたのではなく、自分自身によって罰せられたのではなく、自分自身によって処罰せられた人々である。そして常にその処罰は彼の罪に完全にふさわしいのである、というのは彼らは自分で自分自身を自分の心の状態によって裁くからであって、彼らが経験の意義を充分さとり、光に向かって再び生長をはじめることが出来るまで、彼らは自分の心で自分自身を自分のやった間違った行動や過ちや錯誤の地獄的雰囲気の中に閉じ込めて置くからである。この原則は地上でも幽界でも変りはないのである。何故なら吾々が知っているように、吾々の想念によってはじめて吾々一人一人の世界はつくられるのであり、この世界は吾々が意志の力で、幸福な状態から不幸な状態に至るまで自由に吾々の理解と悟りの程度に応じて選びとることが出来るものだからである」 (同 P60 現代の仮名遣い ・漢字表記・表現に改めました) 「君たちが見たこの地獄において、自分の身に起こることは全て、その人自身の邪悪な人生の結果であり、地上であれ、この霊界内であれ、過去の行為の作品なのである。したがってここには、その状況がどんなにひどいものであっても魂自身が作り出したもの以外は何も存在していない」 (『スピリットランド』 A・ファーニス 訳 岩大路邦夫 訳 コスモトゥーワン P295 現在絶版) 「一言でいえば神の支配は天国だけでなく地獄にも及んでいるということで、地獄も神の国であり、(悪魔ではなく)神のみが支配しているということです」 (『ベールの彼方の生活(二)』 G・V・オーエン 著 近藤千雄 訳 潮文社 P230) 様々な「宗教」の教えで伝えられている「地獄」に相当する世界がおとぎ話や幻想ではなく本当にあるということです。 「幽界」が仏教で言う「輪廻」の範囲に相当しています。「輪廻」は、地上界への「再生」だけではなく、「幽界」での「階層間の移行」をも含んでいます。「地獄」はその中に含まれています。 スピリチュアリズムでは、「地獄」のような暗黒階層についても伝えられています。 これまでの「宗教」の教えで伝えられてきたような神や審判者の裁きがあってそこへ押し込まれるわけではありません。 裁くのは自分自身であり、その心境に応じた世界を自分や自分に類した人達と創りあげているのです。 裁くものも、罰するものもなく、全ては自分自身の創造したものこそが「地獄」であるということです。 それは「天国」を作っているものと同じであるということです。 罪を犯して「地獄」を経験した魂たちからも霊信が届けられます。それは「自分たちのようになるものが少しでも少なくなるように」というおもいからなのです。 また、自分と同じような境域に入らないように教訓をもたらすということによって過ちが償われるという意義もあります。 これまでの「宗教」の教えのように脅かすわけではありませんが、「悪いことをすればこのような世界に行く」ということを知ることで、自分の間違った行いに気付き、少しでも改めようとする人が、少しでもいる可能性があるからです。 犯罪を犯す人、悪い行為をなす人に対しては、「悪い思い、悪い行為を行っていれば、その報いを受けるので、少しでも早く悔い改めてください。悪い行為をしないようにしましょう」ということを伝えるのです。 「地獄に行くのが嫌だから悪いことをしない」ということでは意味がないと思う人もいるかもしれませんが、それでも何も知らずに悪い行為を続けるよりはましなのです。 もし、こうした世界について知っておけば、他界して、自分が暗い苦しい世界にいることが分かったときに、そこが「地獄」だと気付くこともできるかもしれません。 これまでの「宗教」の教えで言われたように、ある教義を信じないから、その教義で伝えられた掟や行為に反したからという理由で「地獄」に墜ちるわけではありません。 その心境に応じてです。また霊的な光明の不足、摂理に反した度合に応じてそうなるのです。 こうした世界があることを知り、その心境と同じであるならば、そうした世界の存在からの影響を受けることもあるということを知ることは、そうした世界があることを知らずに影響を受けるよりも、自らの努力によってそれを防ごうとすることを可能にしてくれます。 「地獄」の住人の心境について知り、それと同通するような心境を持たないように努力することが出来るのです。 このような「地獄」について知ることで、そこへいる人への憐れみを抱くことができる人もいるでしょう。 暗黒界層に落ち込むような人のためにも祈ってあげることができるということです。 罪を犯した人、霊的な闇の中に沈んだ人達のために祈ってあげてください。 「地獄」があるということは、その心境に合わないかぎりは、自分から縁を持とうとしない限りはそうした世界の住人と会うこともないということです。 「公平の法則」のもとに、摂理に反した人と摂理に適った人とが同じ階層に行くということはありません。 自分から接触の条件を整えないかぎりは最下層の世界の住人と接触を持つことはないということです。 通常の人間であれば、最下層の世界の住人と縁がつながることはありません。 これは「地獄」があるからです。「波長相応の法則」が働いているからです。 「地獄」というものがなければ、最下層の魂も、そうでない魂も同じところにいて、心休まるひまもないでしょう。 「地獄」というものがあるのは、無理やりに一度に急速に変化を求めようとはしていないということです。 闇に潜むものに一度に強烈な光を当てるようにはなっていません。 地上でいうところの「長い間」をかけて変化を与えているのです。 一度に強烈な光を浴びせれば、それこそ、物語や神話で言われる「地獄の炎」を何倍にも増幅したような凄まじい「地獄の苦しみ」の世界がそこには展開されるでしょう。 ですから、悪人に急速な改心を力づくで迫るというようなことはなされていないのです。 「地獄」があるということは、「因縁果報の法則」が働いているということです。自らの犯した罪、摂理への違反は必ずその報いをもたらすのです。 「悪を行なった者はこの世で逃れたとしてもその報いを必ず受ける」と知ることは、許せないような大悪人によって被害を受けた人にとって何の慰めももたらさないでしょうか。 「地獄は存在しない」と考えて、「あいつは逃げ切った。許せない」と神や仏、世界を憎み続けるよりはよくはないでしょうか。 「次に見たのは彼の臨終の場面でした。司祭や僧侶がこの男を囲んで、彼の魂が天界へ召されるようにと祈りを唱えていましたが、それどころか反対に、この男の魂は人生によって編み込まれた鎖に体が巻き付かれたまま下へ下へと沈み、地獄にまで落ち込んだのです」 (『スピリットランド』 P192―P193) そして、そのことは、人の犯した罪は神の摂理、因果の法則に任せるべきで、地上の人間は裁くべきではないということでもあります。 「この世を去った後、罪を犯した人はこのような報いを受けるので、この世の人はあまり悪人を裁かないようにしましょう」ということです。 地上の人間が裁いて、死刑を与えたとしても、改心をすることがないならば、条件が整えば、その魂は別の人間に影響を及ぼし、さらに類した犯罪を継続させることになります。 地上界における極刑、処罰が、その人への気付き・改心をもたらさないのであれば、何の意味もないということです。 犯罪者への処罰で、その被害者の遺族が慰められるのであれば、それも少しは意味があることになりますが、その処罰でも相手への憎しみが消えない もしくは軽減されないのであるならば、「地獄」へ行った犯罪者の魂とつながり、その憎しみをさらに何倍にも増幅させ、肉体的な制約のなくなった犯罪者の魂からの影響を受け続けることになるのです。 「この可哀想な夫は死んだのですが、霊界で妻と出会うことはできませんでした。この妻は、哀れで傷ついた魂ですが、死ぬや否や彼女の無垢《むく》な小さな子供と共に高い霊界に行きました。彼女はとても純粋で善良なやさしい女性で、そのつもりはなかったのですが最後は自分を殺した相手を許していたので、彼女がこよなく愛する夫であっても、彼が自分たちの家庭を破壊したこの判事に対する激しい復讐心を持つ限り、その感情のゆえに彼女たちと夫との間には越えることのできない壁が築かれてしまったのです」 (『スピリットランド』 P200―P201) 「善の思いに導こうとしても無駄でした。彼女のやさしい魂がいくら夫に近づこうとしても、彼の周りに集まっている悪霊どもの壁によって締め出されてしまうのです」 (同 P201―P202) 「地獄」があるということは、この地上界における最凶・最悪の行為をした人であってもその生命が継続されているということです。 地上に生きる人間は、自分にとって嫌なもの、害になるもの、憎いものは、消え去って欲しい、無くなって欲しいと思います。 しかし、そうはなっていないということです。 どれほど地上界において悪行を働いて、多くの人々からの憎しみを受けるような魂であっても、どれほど赦し難い存在であると思われるようであっても、消滅してはいないということです。 大悪、大罪を犯すことのない恵まれた状態にある人々にとっては承服しがたいことでしょう。 しかし、どれほどの苦痛・痛みをその中で受けるとしても、その生命は絶たれることがないのです。 地上的感覚でいうところのどれほど長い期間がかかろうとも、そこに意味があり、価値があるとみなされているのです。 「地獄」の存在をも生かし続けているものがあるということです。 地上界の人間にはどうしても赦せないと思える存在であっても、それを見捨てず、生かし続けているかたがあるということなのです。 「地獄」があるということは、その証なのです。 決して誰からも何からも赦されない、愛されない、そんな価値はないと思われる存在であっても、それをじっと見守り続けるまなざしがあるということなのです。 ある「宗教」の教えでは、「地獄」は「永遠の苦しみを与える決して救われることのない世界」とされています。 しかし、「地獄」が存在するということは、地上界の人間が見捨て、排除するような存在であっても温かく迎え入れてくれるかたがあるということなのです。 最下層の世界であっても、それを支える手があるということなのです。 それがどれほどありがたいことであることか、地上界の人間にはなかなか理解できないことでしょう。 苦しみの渦中にある間は、こんな苦しみをもたらす世界があるなんて嫌だ、消えてしまいたい、消えてしまったほうがよいと思います。しかし、その苦しみの経験をもたらす世界があること、生命が絶たれることなく、継続され続けたことがどれほど多くの実りをもたらしてくれたことでしょう。 この「地獄」という世界があってくれることがどれほどの恩恵であることでしょう。 もちろん、ある「宗教」の教えが説くように、「地獄」が「永遠の苦しみのみの救いのない世界」であったのであれば、それには何の意味もなかったことでしょう。 しかし、「地獄」とはそんな世界ではなかったのです。 自分と同じようなものが多くいて、自分では見えなかった、気付かなかったことが、他のものを見て気付くことができる世界であり、神性を見失い、方向感覚が狂った、大きな病気を治す病院のような世界であったのです。 伝染性のある病気のために、隔離する必要があって、通常の人々は忌み嫌い、近寄ること、接触することを嫌がるような人達がいる病院があったとして、その病人たちが嫌であるから、そんな病院は無いほうがいいと思われるでしょうか。 「地獄」とはちょうどそのような階層のことなのです。 「地獄がある」ということは大きな救いの可能性があることを意味しているのです。
「あなたは、わたしの述べることをご自分の理性に照らして、納得がいけば受け入れてください。もしもわたしの言うことにあなたの常識が反発すればそれは拒否なさることです。 わたしに限りません。 いかなる霊媒の口から出たことでも、霊的というにはお粗末すぎると思われれば、それは受け入れる必要はありません」 (『地上人類への最高の福音』 トニー・オーツセン 編 近藤千雄 訳 スピリチュアリズム・サークル 心の道場 P24) 「それを何らかの権威を振りかざして押しつけることは致しません。 わたしが説くところの中身をよく吟味していただきたいというだけです。 それには間違いなく霊的純粋性の太鼓判が押されていること、いかなる検証――理性による検証、叡智による検証、常識による検証のどれをとってみても、ボロの出る心配はみじんもないこと、そこには人生の霊的原理が説かれており、それを実行することによって憎しみと悲劇と不正と利己主義――要するに、今地上にはびこっている邪悪なものすべてを排除することができる、ということを申し上げております。(中略) 真理というものは立派そうな名前を冠した人が言ったからということではなく、真実であるという事実そのものによって価値が確立されるのです」 (同 P25) 「霊界通信」と呼ばれるものは数多くあります。 それらの全てが正しいものであるわけではありません。 この地上界においても様々な人々がいるように、異なる界にも様々な存在がいるのです。 その存在が名乗る名前には一切信じる根拠はありません。 名前がなんであろうと、その名前だけでそれが素晴らしい、それがおかしいと決め付ける根拠にはならないのです。 「ただ信じなさい」と述べるようなことはありません。 いかなる霊媒からであろうとも、その口から語られる、その手から綴られるものが、受け入れられないと感じるのであれば、それを拒絶することができるのです。 「真実は真実」、「真理は真理」です。 あなたがそれを否定しようと否定しまいとそれは変わりません。 「私が最高者である」、「私の述べることのみが正しい」と述べる存在の言うことには注意してください。 そのような存在はいくらでもいるのです。 その「内容」だけが全てです。 名前も知られないような小さいと思われるような存在から真理のきらめきが流れ出ることもあります。 有名だから信じる、肩書きを持つ者の言うことだから信じるというようなことではいけません。 そのためにこそ、名前を名乗らず、身をやつして、ひたすらに語り続ける、伝え続けている存在たちがいるのですから。 「徹底的に吟味しなさい。 その結果 もし私たちが述べることの中に低俗なこと、邪険なこと、道義に反することがあると思われたら、どうぞ拒絶してください」 (『シルバーバーチの霊訓 (四)』 ウィリアム・ネイラー 編 近藤千雄 訳 潮文社 P102) 「この霊媒の口をついて出る言葉にもしもあなた方の理性に反撥を覚えさせるもの、神の愛の概念と矛盾するもの、愚かしく思えるもの、あなたの知性を侮辱するものがあるとすれば、それは、もはや私の出る幕ではなくなったことを意味します」 (同 P103~P104) 全ての「霊媒」と呼ばれるような人物から出る「通信」とされるものにはこうした吟味を行ってください。 無批判に信じるというようなことがあってはなりません。 霊媒がいくら「私の伝えるのは神、高い霊からの言葉だ」と述べたとしても、それだけで信頼できるような根拠は全くありません。 どんな霊媒から、どのような名前で伝えられたとしても、その内容だけが全てです。 人格的に問題のある人間から価値のある通信が全く伝えられないというわけでもありませんが、そのときは一時的に調和された状態にあったか、通常意識を眠らせ、通路とした場合でしかありません。 その「霊媒」に全く向上が見られないのであれば、いつまでも用いられ続けるというようなことはありません。 没我式の「霊媒」であれば、その「霊媒」を超えた優れたものが伝えられることもあります。 しかし、そうでないならば、その「霊媒」に相応のものしか伝えられることはありません。 霊視・霊聴というような「霊媒」であれば、受身の状態であることが重要になります。 自分を誇示するようであれば、高い霊からの通信はまず届けられることはないと心掛けるべきでしょう。
「時には挫折して不遇に喘ぐこともあるでしょう。しかし、完ぺきな信念に燃えていれば、いつかはきっとこの世的な不遇から立ち直ることが出来ます。 大霊の象徴である太陽に向かってこう言うのです―「私は大霊の一部だ! 私を破滅させ得るものは何もない。永遠の存在なのだ! 無限の可能性を秘めた存在なのだ! 限りある物質界の何一つとして私を傷つけることは出来ないのだ!」と。 もしもこれだけのことが言えるようであれば、あなたが傷つくことは絶対にありません。」 (『シルバーバーチは語る』 A・W・オースティン 編 近藤千雄 訳 スピリチュアリズム・サークル 心の道場 P82) 「恐怖心が頭をもたげたかけたら、その波動に巻き込まれることなく、それを抑え込み、信念をもってこう自分に言って聞かせるのです―「自分は大霊なのだ。地上の出来事などで動揺などしない。魂に宿る無限の霊力でいかなる困難も凌いでみせる」と。 そういう力をあなた方は授かっているのです。その無限の力を見限ることほど勿体ない話はありません。」 (同 P85) 「人間は大霊の一部」、「無限の可能性を秘めている」という希望の原理が示されています。 「無限の存在と一つ」なのですから、人間も「無限の可能性」がある存在なのです。 強い信念の力が人間の運命を切り拓いていくことが示されています。 人間の本来の姿は弱いものではなく、地上のいかなる出来事でも揺らぐことがないものなのです。 弱気になったときに勇気を湧き出させ、気力を取り戻させてくれます。 恐怖心に打ち勝つための方法でもあります。 自分をとるに足らないものとして、卑下している人はこのことを思い出してみてください。 「大霊は無限の存在であり、あなた方はその大霊の一部です。 もしも完ぺきな信念を持ち、正しい人生を送れば、大霊の恩寵にあずかることができます。 地上界の全ての人が完ぺきな信念をもてば、大霊はそれぞれの願いを嘉納されることでしょう。 魂が真剣に求め、しかも大霊に対する絶対的信念に燃えていれば、必ずやその望みは叶えられるでしょう。」 (同 P81) 本当の「自己実現・希望達成の法則」です。 無限のものに対する「信仰」と「信念」が一つになるのです。 自分はそれほど価値がある存在なのです。 自分を軽視し、人生を無駄にしないようにしましょう。 「無限の可能性」を発揮できるようになるために、貴重な経験を積んでいるのです。 「自分は何の価値もない」、「自分は生きていても仕方ない」などという後ろ向きな気持ちにならないようにしましょう。 何度も繰り返して言ってみましょう。 「私は無限の存在と一つだ。無限の可能性を秘めているのだ。地上の小さな出来事などに負けはしない。どんな困難も凌ぐことが出来る」と。 無限の可能性を無駄に眠らせているのは、他ならない自分なのです。 絶望することはないのです。 全て出し尽くして、もはやどうにもならないのでしたら、もう打つ手はありません。 しかし、まだ、無限の可能性の扉が開かれずに残されているのですから。 「人間はその内部に何よりも貴重な神性という富を宿しています。大霊の一部です。地上のどこを探しても、それに匹敵する富や宝は存在しません。」 (同 P83) 「忘れてならないのは地上界で生じる難問には人間の魂に内在する霊力で克服できないものはないということです。 いかなる難題も所詮は地上界での出来事であり、物質的波動のレベルです。 それに引き換えてあなた方は神の一部であり、神性を宿しているからです。」 (同 P87) 「進化した魂はいついかなる時も恐れるということを知りません。 人生のいかなる局面に際しても、自分は大霊であるがゆえに克服できないものはないとの確信があるからです。」 (同 P85) 「覚者」、「大師」と呼ばれる方たちが有していた特徴の秘密が明らかにされました。 「新時代」はこの「原理」が元になって築かれていくのです。 不安と恐怖心を克服した者たちが築いていくのです。 鍵は「神性の目覚め」にあるのです。 「霊力を秘めた人間が遭遇する苦難には、いついかなるところにあっても大霊のために役立つことをしている限り克服できないものはない」 (同 P86)
「種を蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。 芽を出させるだけの養分がそろわなくてはなりますまい。 養分がそろっていても太陽と水がなくてはなりますまい。 そうした条件が全部うまくそろった時にようやく種が芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。」 (『シルバーバーチの霊訓(一)』 アン・ドゥーリー 編 近藤千雄 訳 潮文社 P63―P64) ゴータマ・ブッダの教えの中心は「縁起」です。「因縁生起」です。 「主因」と「副因」、「媒介」、「条件」がそろって「結果」が出ます。 この世で理解できないことの全てがこれにかかっています。 「原因と結果の法則」と「条件の法則」は真理の中核にあると思います。 「原因と結果の法則」は多くの人が語るところですが、「条件の法則」を見落としている人が多くいるように思われます。 「真理は魂の準備が整った人へ伝えてください」とは、「差別」しているのではなく、この「条件の法則」に関して述べられているものなのです。 「カルマの法則」についても、よく語られていますが、その法則が「条件」の変化に応じて、その作用の度合いを変化させていることを見落としているように思われます。 不平不満を述べられている人たち、「原因と結果の法則」を知って、それでも不満をのべらるのであれば、「条件の法則」に基づいて考えてみてください。 あなたは適度な土壌を用意されましたか? あなたは適度な養分を与えられましたか? あなたは適度な水を与えられましたか? 周囲の環境は発芽、成長、結実に適していますか? その全てに「はい」と答えられるのでしたら、あなたには何の落ち度もなく、間違っているのは世界でしょう。 しかし、この世は「原因」と「結果」がそのまま連動して現れてくるわけではありません。 「完全の種子」を蒔いても、「完全な果実」がそのまま実るわけではありません。 だからこそ、「完全な果実」を実らせ、収穫するためには、「経験」、「努力」が必要とされるのです。 また、「原因」という種を蒔いてもそのまま「結果」となって現れてくるのではないところに「変化」が生じます。 「悪い種」を蒔いても、「条件」を変化させることによって、「悪い果実」が実るのを阻止することが可能となるのです。 「悪人」もいつまでも「悪人」ではなく、「悔い改め」、「償い」を実践し、「条件」を変化させることによって、「幸せな人」となることが出来るのです。
「自分で「これが正しいと思うことをなさっていれば、それ以上のことは出来ないにきまっています。 もしも他の人を立てて自我を滅却しなければならないと観念した時は、そうなさい。 いつかその埋め合わせがあります。」 (『シルバーバーチは語る』 A・W・オースティン 編 近藤千雄 訳 スピリチュアリズム・サークル 心の道場 P90) 「自分は正しいことをしているのだと真剣に思い込んでいる人は、魂に罪科を負わせることにはなりません」 (『シルバーバーチの霊訓(七)』 シルビア・バーバネル 編 近藤千雄 訳 潮文社 P60) 「自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく、ほんとうの自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従がえることです。 それさえできれば、世間がどう見ようと、自分は自分としての最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。」 (同 P156) 「あなたはあなたなりに最善を尽くしていればよいのです。 所詮あなたは完全な存在ではありません。」 「しくじってもまた立ち直ることができるのです。」 (『シルバーバーチの霊訓(十)』 パム・リーバー 編 近藤千雄 訳 潮文社 P45) 自分が「正しい」と思っていること以上は出来ないとされます。 その時点で、自分が「正しい」と思うことをする以外にはないのです。 後になって、「それは間違いだった」と思うこともあるでしょうが、その時点で、自分の意志、自分の選択に従って行ったことであったのならば、それは「罪」とまではなりません。 過ちから教訓を学び、行いによって償うことが出来ます。 「あなたは完全な存在ではない」、「自分なりの最善を尽くせばよい」という言葉は、 「人間とは「神」と一体の完璧な存在である」と考える人にとっては、「人間の能力を制限し、神との障壁を設ける」と受け取れるかもしれません。 しかし、「何もかも完璧に行おう」とすることには問題があり、それが無理であることは、様々な経験が示しているでしょう。 「人間が本来、神と同じ無限の可能性を秘めている存在である」としても、そのことが「神と同じように全能で、そのまま能力を発揮できる」ということにはならないのです。 また、「自分は正しい」と思うことをしていることが、周囲の人々との軋轢を生み出すこともあるでしょう。 そのときには、「自分は完全な存在ではない」と思い出すことも必要となるでしょう。 優れた人であれば、「自分を滅して、他の人の役に立つ」ということも、自然に、自分の望むこととして苦もなく行えるでしょうが、なかなかそうはいきません。 そのときには、「きっと報いが与えられる」と知ることも、その手助けとなるでしょう。 「嫌々ながらやる」のではなく、「自分の納得できる行為」として行えるように努力することでしょう。 「あなたは完全な存在ではありません」とは、「無理をする必要はありません」ということでもあります。
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